まえがき

私は中学校の卒業アルバムにこんな文章を書いた。

人生という長時間のドラマをうまく演出することは困難だ。とにかくマイペースで。

それから五十年。いつでもマイペースで歩くことができたわけではなかった。むしろマイペースを保つことのほうがむずかしかった。無理やり走らされたり、じっと止まっているように指示されたりもしてきた。しかし、たくさんの場面で、いくつものふしぎとの出会いが待っていた。次はどんなふしぎと出会うのだろうかと、楽しみながら毎日を過ごすことができるようになってきた。

いま、認定こども園の園長と、浄土真宗本願寺派のお寺の住職という、二足の草鞋(わらじ)を履いて毎日を送っている、生まれて数か月の赤ちゃんから、人生を終えて旅立っていく人々と接するなかで、人はそれぞれが主人公のドラマを、生きながらに演じているのだな、と強く実感するようになってきた。私は私で自分を主人公とする人生を歩んでいる。

しかし、私の隣にいる人はその人なりに、自分を主人公とする人生を歩んでいて、私はその人にとってわき役でしかない。どんなに小さな赤ちゃんでも、もう立派な主人公としての人生を歩いている。いや、お母さんのおなかのなかにいるときから、人生としてのドラマはすでに始まっている。そんなことを最近になって、つくづく思うようになってきた。

中学生のときに「長時間のドラマ」と考えていた私の人生も、もうとっくの昔に折り返し点は過ぎ、ドラマの終盤にさしかかっている。しかしながら、それをうまく演出することは、いまだにできないでいる。毎日がシナリオのない、即興の舞台である。

ところが、これがなかなかおもしろい。だれもが毎日それぞれ、シナリオのない即興劇を演じているため、なにが起きるのか予測できない。人生は即興劇である、と意識すると、世の中が違って見えてくるような気がしてならない。

いま現実の世界は、とても生きづらいといわれている。人類は便利で過ごしやすい環境を求めてきたはずなのに、なぜか生きにくい世界になってしまっている。どうしてだろう?