【前回の記事を読む】便利で過ごしやすい世の中なのに、「生きづらい」のはなぜ?
第一章──出会いのふしぎ
一枚の名刺
十月初めのこと。まだ夏の暑さの余韻は残っていたが、空の雲にも街路樹にも、少しずつ秋の気配が感じられるようになってきていた。
会場になっている部屋に入ると、先生の元気そうな姿があった。先生から講演の資料とは別に、茶色の封筒を受け取り、席に着いた。それほど広くはない部屋には、すでに三十人ばかりの参加者が座っていた。
資料にざっと目を通したあと、封筒を開いてみると、そこには一冊の文庫本と透明な袋に入った古い名刺が一枚。そして、その名刺にまつわる事柄について両面に書かれた、ハガキ大のカードが二枚入っていた。名刺に印刷されている名前を見ると、「志賀直哉」とある。「えっ! あの文豪の名刺? どうしてぼくに?」。一瞬頭がクラクラして、ふしぎな気持ちがした。
やがて先生の講演が始まり、資料を開きながら聞いていたが、いっぽうでは机の端に置いた名刺が気になってしようがない。あまり集中できないまま時間が過ぎ、先生の講演が終わった。何人かの参加者が先生と話をしているので、しばらく待つことにした。
最後になって先生に近づくと、「これをぼくがいただいていいのですか?」とおそるおそる尋ねた。すると先生は「君がもっていたほうが、ふさわしいでしょう!」と、いつものように、両方の手のひらを大きく広げながらおっしゃった。
なぜ私が志賀直哉(以下、志賀)の名刺をもっていてもいいのか。そこにはいくつもの「ふしぎ」な出会いがあったからだ。この名刺には志賀を含めて四人の人物が関わっている。このふしぎな関わりを解き明かすために、ふしぎがつないでくれた一枚の名刺にまつわる、一つの物語を始めることにしよう。