第三章──ふるさと島根のふしぎ

石見

近世になると、世界遺産に登録された「石見銀山」が姿を現す。銀の採掘が盛んに行われたのは、室町時代の末期から戦国時代、そして江戸時代の初めのころだったようだ。

銀は国内で流通したのはもとより、博多から明(みん)との交易に使われ、さらには大航海時代のポルトガルなど、西洋の国にも届いていた。西洋の地図には「IWAMI」の文字が記されるほど、その存在が知られていた。

世界遺産に登録された当初はどっと観光客が押し寄せ、遺産の保護か観光か、それとも地域住民の生活優先か、といった問題が一度に露呈し、大問題となった。しかしいまでは落ち着きをみせて、しっとりと穏やかな街並みが続いている。古いたたずまいは、人の心をそっとやさしく包んでくれるような気がする。銀の搬出に使われた港の近くには、温泉津(ゆのつ)温泉がある。

この町も狭い通りながら、なかなか趣のある姿を見せている。石見にはほかにも、いくつか小さな温泉があるが、出雲の温泉とはまた違った味がある。派手さはないけれど、どこか落ち着く。時間の流れがゆったりしているように思われるのだ。銀という金属とは別の、なにか人間的なぬくもりがそこにはあるように感じられる。

石見のなかでも最も西にあり、山口県と隣接しているのが津和野町(つわのちょう)である。明治初めまでは津和野藩であって、そこには藩校としての養老館(ようろうかん)があった。江戸時代の終わりから明治にかけてこの養老館で学んだ生徒のなかから、明治から大正にかけて活躍する逸材が、何人も育っていった。

鹿児島・島根・宮崎の各県知事を務めたあと、初代の札幌市長となった高岡直吉。その弟で、北海道帝国大学の総長を務めた高岡熊雄がいる。名を挙げればほかにも何人もいるが、ここでは二人を紹介することにしよう。

一人は啓蒙思想家であり、西洋哲学者でもあった西周((にしあまね)以下、西)である。私たちは「哲学」「芸術」「心理学」といったことばをあたりまえに使っているけれど、これらのことばは西が西洋の言葉から翻訳したものである。ふだん私たちがなにげなく使っていることばのなかにも、西の翻訳語が含まれている。

西は明治になる前の文久年間にオランダに留学し、法学・哲学・経済学などを学んでいる。かの地にたどりつくだけでも大変な困難があったことと想像できるが、見るもの聞くものすべてが初めての世界。困惑しながらも、初めて知る文化をどん欲に求めていったことだろう。