第三章──ふるさと島根のふしぎ

隠岐

本州からおよそ五十キロ北に離れている隠岐へは、これまで五回しか行っていない。しかも海岸部だけで、奥にまでは入りこんでいないため、隠岐について語る資格はないのかもしれない。

しかし隠岐だけをはずすわけにはいかないので、私が気づいた隠岐のふしぎを紹介することにする。

高校時代、仲のよい友人に隠岐出身者がいた。お昼の弁当は、ほとんど彼と一緒に食べた。そんな友人がいうのには、「隠岐弁は、雅(みやび)なことばだ」そうだ。

しかし私の耳には、とても雅には聞こえてこなかった。なぜ彼がそんなことをいったのかといえば、それは隠岐の歴史が関係しているからだった。

隠岐は古くから遠流(おんる)の地として定められていた。遠流とは、罪人を都から遠く離れた島や地方に送る刑罰のことで、隠岐は奈良時代の聖武(しょうむ)天皇のとき、流刑の地とされた。

そして鎌倉時代には、後鳥羽(ごとば)上皇と後醍醐(ごだいご)天皇が隠岐に流されている。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府となって武士が権力を握り、朝廷をないがしろにしていることに憤(いきどお)りを覚えた。

そこで時の執権(しっけん)、北条義時(ほうじょうよしとき)を討伐する院宣(いんぜん)を出して、幕府を倒そうと企てたのが一二二一年のこと。

しかし上皇はこの戦(いくさ)で敗北して捕えられ、隠岐に流された。これを承久(じょうきゅう)の乱といった。上皇はそのまま隠岐にとどまって十九年を過ごし、この地でいのちを終えて火葬された。

この間、隠岐の住民は、現在の「牛突(うしつき)」につながる催しなどで上皇を慰め、いまでも「ごとばんさん」と呼んで親しんでいるそうだ。

それから百十年後の一三三一年、後醍醐天皇もまた、鎌倉幕府を倒そうと計画を立てた。しかし側近の密告によって発覚し、捕えられてしまい、一三三二年に隠岐へ流罪となった。元弘の乱である。

後醍醐天皇が後鳥羽上皇と違うのは、翌年に隠岐からの脱出に成功していることだ。そして、足利高氏(のちの尊氏)と新田義貞の挙兵によって鎌倉幕府の北条氏を倒し、その後の南北朝時代や室町幕府の成立に、深く関わっている。