しかし、「総合的な学習の時間」が創設された時期は、現在のような「学習指導要領の解説書」は刊行されず、学習指導要領の総則にいくらかの記述があったのみでしたので、「目標」と「内容」と「方法」のすべてを各学校で決めなければなりませんでした。
このため、「先生によって捉え方が異なり、歩調が合わない」とか「担当の先生だけに多くの負担がかかる」といった問題が生じてしまうこともあったようです。
これが例えば、対象とする子どもの数が各先生につき数人程度で、時間も弾力的(探究をする活動なのに、最初から「何時間かかる」と予定を組むことは現実的ではない)に使えればよいのですが、へき地・小規模校以外は、担任一人につき最大で40人もの子どもを受けもつことになります。
そこに「先生によって捉え方が異なり、歩調が合わない」といった状況があれば、先生方にとっても「見通しがなく、ゴールも見えない時間」となります。先生方がそのような状況になれば、子どもたちはさらに見通しがもてなくなると予想されます。
1)松浦善満「疲弊する教師たち」、油布佐和子編『教師の現在・教職の未来―明日の教師像を模索する―』教育出版、1999、pp.16-30.
2)池野範男「教科教育の研究と実践」、日本教科教育学会 編『今なぜ、教科教育なのか』文溪堂、2015、pp.99-100.
3)文部科学省『小学校学習指導要領(平成29年度告示)解説』東洋館出版社、2018、p.180.
4)教員養成系の大学のカリキュラムで「指導案作成」の指導に多くの時間が割かれるのは、ここで述べたように「方法」の具体が教科書には書かれていないことも要因です。このことが教員志望の大学生に理解されないと、「教科書があるのになぜ指導案をつくらなければいけないのですか」といった疑問をもつ大学生が続出することになります。
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