59才 失くした物と得た物
ダンナが死んだ―まさかの現実。
自覚はなかったが、この時から私の「おひとりさま」は始まろうとしていたようだ。
たしかにダンナは肝臓の数値が悪いと1ヵ月半入院したものの退院、体力も少しずつ戻りはじめ還暦祝の1泊旅行もし、そのたった1週間後にはこの世からいなくなるなんて、頭の中のすみっこにさえなかった事。よくいう野球の九回裏2アウトからの逆転満塁ホームラン的な。
その1年半前、最愛の母が「くも膜下出血」で入院、手術。これからという時コロナ禍へ突入。面会禁止の日々が続き傍にいてやることすらできず、むなしさや後悔ばかりの日々を送っていたが、現実をみればダンナと息子2人、仕事と家事に追われる日々。
仕事帰りに買物を済ませ、クタクタのヨレヨレで帰宅すると、一足早く帰ったダンナが、ひとっ風呂あびて今日1日無事終了―みたいな顔でレモンサワーを美味しそうに吞んでいるのを見ると、私も仕事してるんですけどーと料理をしながら包丁持つ手に力が入ったものだった。60才を目の前にし、職場のバツ1をつかまえては「熟年離婚ってめんどうかな?!」とお昼を食べながらよく聞いていた。
ダンナは大の酒好き! ヘベレケになるまで呑む! 私はそれが大嫌い‼
別に暴力をふるうとかはないがそこら辺で寝る。ベッドへ行ってと言っても返事のみ。この毎晩エンドレスで続くやりとりに嫌気がさしていた。1度きりの人生、こんなんでいいの? と不満はつのり「熟年離婚」という言葉が頭の中を横切る。
しかし、ダンナは子供や孫たち、実家の親たちからは絶大の人気を誇っていた。とにかく「優しい」のだ! これが私のめんどくさい事は後回しにする性格により、熟年離婚計画を一向に進まないものとしていた。
そんな時のダンナの死―。
マジで? え? お母さんじゃなくて?
この頃は母の寝たきり生活も1年半を過ぎ、面会も出来ず病院の天井だけをただただ見つめている母を想像すると、苦しまずに安らかに逝ってくれたら……と祈る様になり、少しずつ母の死をも受け入れることができはじめていた。―のにである。
嫌な予感がなかったわけではない。ある日寝室の掃除をしていると、ベッドから近所にできる葬儀場の広告が出てきたり、夕食の最中、いつもの様にレモンサワーと私の作った料理をパクパクとたいらげながら「俺の通帳の暗証番号はお前の誕生日やけん」との発言に、すかさず「えーなんでー? 死ぬとー?」とふざけて返事をした。まさか数ヵ月後には現実になるなんて思いもしなかった。