【前回の記事を読む】日本への原爆投下作戦…アメリカ軍の惨たる“演習”の実態

《三》ドイツの原爆開発の状況

そもそもアメリカの原爆開発はレオ・シラードの杞憂―ドイツのヒトラーが核爆弾のことを知り、原爆を先に手に入れたら、どうなるだろうと考えたことから始まりました。そのドイツでは一体どうなっていたのでしょう。少しさかのぼってみましょう。

ドイツで原爆開発にもっとも熱心だったのは、一九三四年に陸軍兵器庁付となった物理学者のクルト・ディープナーで、物理学に関心を持つよう軍部を説得し続け、一九三九年夏にとうとう原爆製造計画に着手する許可を手に入れました。この時期は、アメリカでアインシュタインの手紙によって一九三九年一〇月にウラン諮問委員会が作られた時期とほぼ同じでした。

陸軍兵器庁の原爆開発に前向きな主張に対して、核分裂反応を発見したオットー・ハーンは、ドイツは膨大なウランの埋蔵量があるとはいえ、ウラン鉱にごく微量しか含まれていない同位体であるウラン二三五を分離するのは決して容易ではないと一貫して異論をとなえ続けていました。

陸軍原子力研究プロジェクトに配属されたハイゼンベルク

ハイゼンベルクの助手を務めていたエーリヒ・バッゲは、陸軍兵器研究所に勤務していて、核兵器の製造が実現する可能性があることを指摘し、ハイゼンベルクの招聘を当局に提案しました。こうした経緯で、ハイゼンベルクは当局から一九三九年九月二六日にベルリンへ呼び出され、ナチスの陸軍原子力研究プロジェクトに理論物理学者として軍事任務に就き、ドイツ南西部のシュヴァルトヴァルト(森林地帯)の施設に配属されました。

ハイゼンベルクは教会の地下に初歩的な原子炉を建設し、原子力研究を行いました。原子炉は、ウランばかりでなく、原子核反応を減速する重水(水素の原子核に一個の中性子を加えた重水素の水)を必要としていました。重水はノルウェーの工場から供給されていましたが、連合軍の爆撃によって工場は破壊されました。のちに、重水の供給が絶たれたことが、ドイツが原爆製造プロジェクトから早々と手を引かざるをえなくなった要因のかなりの部分だったというドイツの科学者もいました。