核分裂が軍事的に利用できるかどうかを探るための二年間の基礎的な研究を終えた一九四一年一二月、ヒトラーの命令を受けて、ドイツの原爆製造計画をめぐって、上層部は半年間、検討を重ねることになりました。
ウィルヘルム・カイテル元帥の科学顧問をしていた陸軍兵器庁の研究部長エーリッヒ・シューマンは、核研究に取り組む各地の研究所の責任者に書簡を送り、実戦配備が可能な原爆の完成に要する時間について意見を交換するため、ベルリンで開く全体会議に参集せよとの指令を出しました。シューマンの書簡による呼びかけで、科学者、軍の将校、民間の関係者、そして政府の高官など、いろいろな集団が、一九四一年一二月一六日にベルリンで第一回目の会合を開きました。
まず、それぞれのグループが手がけてきた研究の報告がなされました。この会議の詳細な記録は現存していませんが、シューマンとその上官のレープ将軍は、核分裂の研究を進めても軍事的に得るところはないという「正式な結論」に達しました。
原爆開発に積極的だった陸軍兵器庁
ところが、上層部が悲観的な見方をしている一方で、ディープナーを責任者とする陸軍兵器庁の物理学者たちは、ベルリン郊外のゴットウにあった研究所で、独自の原子炉の実験に取り組んでいて、原子炉と原子爆弾の開発を目指す本格的な作業に着手する提案をするつもりでいました。
ディープナーとその同僚たちが一九四二年二月に書き上げた「ウランを用いたエネルギー生産」と題する報告書には、ウラン二三五もしくは原子炉の内部で生じる九四番目の元素(プルトニウム)を使えば、「同量のダイナマイトの一〇〇万倍の破壊力」を持つ爆弾を作ることが可能だと明記していました。そして原爆を作るには一〇ないし一〇〇キログラムの核分裂性物資が必要だとしており、原爆製造計画を一大産業プロジェクトにすべきだと力説していました。
さらに、ドイツ物理学協会の会長を務め、大企業AEG(ドイツの大電機メーカー)の研究所長でもあったカール・ラムザウアーは、分厚い資料を帝国科学者専門会議の教育相ベルンハルト・ルスト宛に送付し、アメリカが核物理学の分野で成果を上げていることを示す資料を巻末に付して、ドイツはハイゼンベルクの処遇を誤らなければ、それほどアメリカに遅れをとらないで原爆の開発ができると言ってきました。
この分野でのドイツの第一人者はハイゼンベルクであることは誰もが認めていました。彼の意見がドイツの核開発の動向を決めるだろうということは、ドイツの関係者はもちろん、アメリカやイギリスにいる彼の多くの物理学の友人もそう思い、また、彼を恐れていたのです。
このラムザウアーの教育相ベルンハルト・ルスト宛の提言をきっかけに、帝国科学者専門会議の核分裂に寄せる関心は深まり、陸軍兵器庁の研究部長シューマンのもとで、陸軍は核エネルギーに関する実質的に最後となる会議を、一九四二年二月二六日からベルリンで開きました。しかし、この会合でも一般的な核エネルギーの話が主で具体的な原爆開発計画に言及する者はいませんでした。