【前回の記事を読む】イギリスで最初に起きた「産業革命」…奴隷三角貿易との深いつながりとは

第二章 産業資本主義

《一》イギリスの産業革命と産業資本主義の誕生

産業資本主義を設計したアダム・スミスの『国富論』

経済学を一つの学問として確立したのが、アダム・スミス(一七二三年~九〇年)で、一七七六年に『国富論』を出版し、「経済学の父」と呼ばれています。

当時、経済的には 重商主義といわれる時代で、絶対王政のもと、貿易によって財貨を得ることで一国の富を増大させようとしましたが、その政策の結果として、逆に金貨幣が大量に国外に流出し、軍事支出の増大とともにイギリス経済を疲弊させる原因となっていました。

スミスはこの重商主義を批判し、その題名のとおり、一国の国富は「年々に国民が享受しうる生産物(特に一人当たりの生産物)量ととらえ、その原因は国民の労働にある」ととらえて経済論を展開しました。

スミスは、富の源泉は、労働生産性の向上、つまり労働をする際の技巧、熟練、判断の向上に求められるとしました。そしてこれらの向上は分業に依存するから、富を増加させる第一の原因は分業であるとしました。

分業の拡大・深化は資本蓄積の大きさで規定されるから国富増大の第二の原因は資本蓄積であるとしました。また資本蓄積はその社会における総労働に占める生産的労働・不生産的労働の比率によってきまるので、国富増大の第三の原因は生産的労働と不生産的労働の比率にあるとしました。

自己にもっとも有利と思われる職業に人々が分業化していくと、自己の消費をこえる剰余物が必ず生産されます。自己の剰余生産物を他の分業者の剰余生産物と交換することになります。社会的分業が支配する社会では労働生産物の交換が必然化します。分業が社会全体を支配するようになれば、労働生産物を交換するさいの交換比率が人々の関心の的となります。そこで交換価値の問題が登場します。

このようにスミスは価値論、分配論、蓄積論を述べていきました。