【前回の記事を読む】日本へ原子爆弾を投下する前、アメリカではなにがあったのか?
原爆投下の実行部隊ー第五〇九混成部隊
原爆投下部隊(第五〇九混成部隊)の発足
そして、一九四四年一二月にルーズベルト大統領の指示により、原爆投下の実行部隊(第五〇九混成部隊)が第二〇空軍内に設立されました。この部隊の設立目的は、当時の敵国の日本への原爆投下作戦の遂行でした。
ただし、この目的は作戦を実行する兵士には作戦当日まで伏せられたままでした。隊長に任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、一九四四年一二月に編成を完了し(B-29計一四機および部隊総員一七六七人)、ユタ州のウェンドバー基地で原爆投下の秘密訓練を開始し、一九四五年五月に太平洋の作戦基地のテニアン島に移動しました。
テニアン島から日本へ飛行しての原爆投下の演習を、模擬原爆(パンプキン爆弾)を用いて、繰り返し実行しました(現実に日本に多くの模擬原爆を落としていました)。
原爆投下阻止の試み
前述しましたボーアやブッシュたちの動きとは別に、一九四四年の夏には、ドイツに対する戦争の決着が見え始め、それとともにドイツの原爆開発の可能性がないこともわかってきました。
一九四四年七月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、一一月一八日、「ニュークレオニクス要綱」と題した報告をコンプトンに提出しました。
この報告はタイトルが示すように、エレクトロニクス(電子工学)に対応したニュークレオニクス(原子核工学)という名前を提唱し、アメリカが原子核の研究とニュークレオニクス産業で指導的な地位を保つとともに、原爆を「都市や全国民を絶滅するために使われてはならないのが、我々の熱烈な希望である」として、核戦争の手段を効果的に管理できる警察力を持った国際管理機関の必要性を述べていました。
一方、原爆開発のきっかけを作ったシラードは、マンハッタン計画においても大きな役割を果たしていましたが、原爆の完成が近づき、ドイツ敗北の目途がたってくるにつれ、東京大空襲など日本に対する大規模な爆撃が始まると、日本に対しての原爆使用を懸念し始めました。
シラードはアインシュタインを通じて再びルーズベルト大統領に接触しようとしましたが、その前の四月一二日に、ルーズベルトの急死のニュースが入りました。