アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」
レオ・シラードの杞憂
一九三八年、ドイツのオットー・ハーンの核分裂反応の発見は、あまりにもタイミングのよくない時期でした。ドイツの独裁者ヒトラーがチェコスロバキアを併合し、翌一九三九年九月にポーランドに侵攻し、第二次世界戦争を始める直前でした。
核分裂反応の発見から原爆開発への道には、先を見通すことに長けていた物理学者レオ・シラード(一八九八~一九六四年)の杞憂(杞の国の人が、天が落ちてこないか憂いたという中国の故事より、取り越し苦労の意味)から始まりました。
レオ・シラードは、一八九八年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国のブダペストでユダヤ系の土木技師の息子として生まれ、第一次世界大戦敗戦後のハンガリー国内の政情の混乱を受けて一九一九年にベルリン工科大学に移り、アインシュタインやラウエ、プランクなど一流の物理学者に出会い、工学から物理学の研究に転じました。
彼は科学のみならず世界情勢に関しても人よりも先を見通すことに長けていて、工学にも秀でており、研究成果を論文の形で発表するよりも特許を申請することを好み、原子炉、線形加速器、サイクロトロン(円形加速器)、電子顕微鏡を始めとする多くの先進的なアイデアを特許の形で残しています。
また、年齢の離れたアインシュタインとは公私にわたる付き合いをし、液体金属ポンプの設計をともに行って安全な冷蔵庫として特許も取得していました。天才的な才能を持っていたことは確かでした。
一九三三年一月にナチスが政権を握り、翌月には国会議事堂放火事件が起きるとシラードはナチスの関与を嗅ぎ取り、その数日後には単身でドイツを後にし、ロンドンに亡命しました。イギリスの物理学者ジェームズ・チャドウィックが一九三二年に中性子を発見すると翌年一九三三年一〇月、シラードは核分裂の連鎖反応のアイディアが不意に浮かび、すぐ、この連鎖反応についての特許をとりました。
この「核の連鎖反応」という概念はレオ・シラードによって初めて提唱されましが、それは、電気的に中性な中性子は容易に原子核に衝突させることができ、もしそれによって複数の二次中性子を放出するような種類の原子が存在すれば、連鎖反応によって、莫大な核のエネルギーが一気に放出されることになるというものでした(つまり、原爆、原発の原理です)。
特許は理論だけでもとれますから、彼は核エネルギーに関する、いくつかの特許を取得しました。そして、レオ・シラードが密かに危惧していた中性子によるウランの核分裂実験が一九三八年一二月、ドイツのオットー・ハーンらによって成功したことを知ると、レオ・シラードは、ナチスが原子爆弾を先に完成させるのではないかという強い危機感を抱くようになり、アメリカに移住しました。