【前回の記事を読む】核分裂反応~原爆開発の道は1人の研究者の杞憂から始まった
アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」
原子炉とプルトニウムの開発
一九三九年一〇月二一日、ウラン諮問委員会の最初の会合が開かれ、陸軍から少額の研究資金が与えられ、一九四〇年、シラードとフェルミは黒鉛の中性子吸収に関する実験を行い、黒鉛を減速材として用いた連鎖反応が有望であることがわかりました。
続いて、一九四〇年六月、四万ドルの資金がコロンビア大学へ与えられ、シラードはコロンビア大学から正式に雇用され、フェルミに協力して連鎖反応の基礎実験を続けました。連鎖反応の実現にはウランの同位体の一つであるウラン二三五が必要であること、天然ウランにはウラン二三五が約〇・七%しか含まれていないので、いかに効率よくウラン二三五を分離・精製するかが課題であることがわかりました。
また、原子炉において、原子番号九二のウラン二三八が中性子を捕獲してウラン二三九となり、それがベータ(β)崩壊して原子番号九三のネプツニウム二三九になり、さらにそれがベータ(β)崩壊して原子番号九四のプルトニウム二三九ができ、このプルトニウム二三九を使って連鎖反応が起こせることもわかりました。
なお一九四一年二月に原子番号九四のプルトニウムがカリフォルニア大学バークレー校のグレン・シーボーグにより発見されました。
イギリスでの検討
一方、イギリスでも前述のマイトナーの甥であるオットー・フリッシュとドイツ生まれのルドルフ・パイエルスという二人の亡命ユダヤ人物理学者がバーミンガム大学で核分裂の研究をして、一九四一年七月、ウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポート『フリッシュ&パイエルス覚書』にまとめ、核エネルギーの兵器応用、原子爆弾の可能性を具体的に示しました。
これによってイギリスの原子爆弾開発を検討する委員会であるモード委員会(偽装として選ばれた名称であり特に意味のない名称)が作られ、一九四一年の夏、ウラン濃縮とこれを利用したウラン爆弾の開発は可能、そして航空爆撃機に搭載可能な大きさであること、人工的に生成される新たな放射性元素であるプルトニウムが核爆弾の核分裂の素材になりうること、「我々は、今や実戦的なウラン爆弾の製造が可能であるという結論に達した。(略)それは、戦争に決定的な影響力を持つものと思われる」という報告書をまとめました。
この時点ではイギリスの検討がアメリカより進んでいたと言えます。一九四一年一〇月にイギリスの原爆開発計画「チューブ・アロイズ」が発足しました。この時点で、チャーチル首相は、イギリス政府からアメリカ政府へ報告させました(アメリカはまだ、第二次大戦に参戦していませんでしたが、米英の仲はそれほど親密でした)。
イギリスのレポートの内容を検討したルーズベルト大統領は、(アインシュタインの手紙の影響もあったのでしょう)ここではじめて原子爆弾の重大性を知り、原子爆弾の開発を目的とした一大プロジェクトに着手すると決定しました。
また、ルーズベルトはイギリスとの協力体制についても同意し、一九四一年一〇月一一日にイギリスの首相チャーチルに書簡を送りました。当時、イギリスは連夜のごとくドイツ空軍の爆撃にさらされていましたので、最終的にチャーチルが下した決定は、「イギリスは、アメリカを拠点としたアメリカ人が管理する原子爆弾開発を支援する」というものでした。