シカゴ大学原子炉CP─1の臨界実験に成功
一九四一年一二月の日本軍の真珠湾攻撃の直後、シカゴ大学のアーサー・コンプトンは「冶金研究所」(隠蔽のために無関係な名称が付けられました)にてプルトニウムの研究を開始しました。研究のため、コンプトンはエンリコ・フェルミ、レオ・シラード、グレン・シーボーグなど核分裂の研究者をシカゴ大学に呼び集めました。
フェルミは、一九四二年五月、シカゴ大学キャンパス内のアメフト場に世界最初の原子炉「シカゴ・パイル(CP)─1号」を完成させ、一九四二年一二月二日より臨界実験を始めました。同日一五時二五分(シカゴ時間)、制御棒が引き抜かれ、原子炉CP─1号は臨界に達し、原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功しました。
しかし、プルトニウム原爆の製造に必要な量のプルトニウムを生産するためには、CP─1号はスケールが小さすぎ、もっと大きな設備が必要であることが判明しました。ジェームズ・コナント(ハーバード大学総長及び国防開発委員会議長)は、ウラン原爆とともにプルトニウム原爆の開発に着手するよう科学研究開発局局長のバーネバー・ブッシュに進言しました。ブッシュたちは巨費を要する原爆の開発・製造を国家事業とするようにルーズベルト大統領に提言しました。ルーズベルト大統領はこれを承認しました。