蜻蛉(かげろう)
薫が、八の宮の三人の姫君たち(大君、中の君、浮舟)のことを思い出しながら、ぼんやりとながめていると、はかなげに蜻蛉が飛び交っている。
薫「ありと見て手にはとられず見ればまた 行く方もしらず消えしかげろふ あるかなきかの」(⑥二七五頁)
(そこにいるのが見えているのに、手に取ってみることができず、よく見ているつもりなのに、そのうちどこかへ消え去ってしまう蜻蛉。いるのか、いないのか、それさえもよくわからない)
薫は、浮舟をめぐって、匂宮と激しく競っていたのに、浮舟の姿が消えた途端に、そんな人はいなかったかのように、新たな人間関係が展開してゆく。
「好きだ」「恋しい」などと言っていた心は、一体何だったのだろうか。
この年の春亡くなられた式部卿宮(桐壺帝の皇子で、光源氏の弟宮)の姫君の身の上を不憫に思われた明石の中宮は、この姫君を迎え取ることとされた。女一の宮の話し相手として適任だと思われたからである。
しかし、宮仕えであるから、女房として形ばかりであっても、裳(も)を着けなければならない。薫は、この姫君に大いに同情する。
明石の中宮や女一の宮(明石の中宮の第一皇女)の威勢を目の当たりにすると、薫は、気が滅入ってくる。
自分(薫)の母である女三の宮は、朱雀帝の皇女であり、父帝からずいぶん大事にされていたと聞く。后腹でないことを除けば、母宮と女一の宮にそれほどの違いがあるわけではないのに、威勢がこれほど違うのはなぜだろう。
明石一族は受領階級出身でありながら、今では中宮や皇女として、栄華を誇っている。薫は、明石というところは、得体の知れない、不思議なところだと、思い続ける。
しかし、わが身を振り返って思うと、薫自身、光源氏の実の子ではなく、母宮と柏木との不義によって生まれた身である。それなのに、帝や中宮は、薫が光源氏の実の子であると信じて、大事にしてくださる。
奇妙に恵まれた宿世(すくせ)だ。明石一族のことをとやかく言うわけにはいかない。
このようなことに思いを馳せながら薫が詠んだのが、冒頭に掲げた歌である。
この世の中は、「虚」と「実」とで成り立っているのではないか。
もしかしたら、この世の中は、「虚構」のうえに成り立っているのではないか。
紫式部のこの世の中についての考え方が、薫の歌に端的に示されている。
(1)明石の浦は心にくかりける所かな(⑥二七二頁)