固定観念の払拭
久しぶりに花散里を訪れた光源氏は、二人で親しく語り合う。
このときの光源氏について、物語は、いつものように、光源氏は、あれやこれやと、懐かしそうに語るが、心にもないことを語っているわけではないだろうとする。
考えてみれば、不思議な一文である。なぜ作者は、「心にもないことを語っているわけではない」と書いたのか。
小学館本②一五八頁注二六は、「源氏の誠実さを語り手が推測する」としているが、はたしてそうだろうか。光源氏は理想的な人物であることを前提にすれば、小学館本の注記のような理解になるのだろう。
しかし、光源氏が理想的で誠実な人物であるというのは、固定観念であるに過ぎない。
そのような固定観念から離れて、光源氏は誠実な人物であるかどうかわからない、誠実な人物でないかもしれないということを前提にして読むと、右の注記とは異なった作者の意図が見えてくる。
筆者の理解するところを言えば、作者は、光源氏が心にもないことを語ることを習い性とする人物であることを前提として、花散里と語り合う場面では、「心にもないことを語っているわけではない」と、わざわざ書いたものと解する。
この一文から、作者が光源氏をどのような人物として造形したのか、理解することができる。それと同時に、『源氏物語』を読むに当たっては、固定観念を払拭することの重要さを再認識させられる。
(1)何やかやと、例の、なつかしく語らひたまふも、思さぬことにあらざるべし
自分のことは棚に上げる
桐壺帝の退位と朱雀帝の即位に伴って、故前坊(前の東宮で、故人)の姫君が伊勢神宮にお仕えする斎宮になられた。
姫君の母君は、六条御息所である。御息所は、光源氏の心が自分にあるのかどうか見定めがたいので、思い悩んだ末、姫君がまだ年若い(このとき、十三歳)ことを口実に、姫君に付き添って、自分も伊勢に下ろうかと、かねてから考えていた。
このような事情が桐壺院の耳に入り、院は、光源氏に言われる。
「御息所は、亡き東宮がとても大切な人だと思い、大事になさっていた人だ。その人を、並みの女性と同じように軽く扱っているのは、気の毒なことだ。斎宮も、自分(桐壺院)の皇女たちと同じく思っているのだから、どちらから考えても、御息所をおろそかに扱ってはならない。心の赴くままに好き勝手なことをしていると、世間の非難を受けることになる」
と、ご機嫌が悪い。
さらに、院は、
「相手の女性の顔をつぶすようなことなく、どの女性も波立たないように扱うことが肝要だ。女性から恨まれるようなことをするな」
と仰せになる。院から𠮟られて、光源氏は、藤壺との密事が院の耳に入ったらどれほど𠮟られるだろうかと思うと恐ろしくなって、かしこまって退出した。
この際、桐壺院のこれまでの行状を思い返しておきたい。院は、かつて、数多くの女御や更衣の中で、桐壺更衣だけを熱愛された。
「どの女性も波立たないように」扱っておられたとは言い難い。
桐壺更衣以外の女御、更衣たちは、始終、院を恨みがましく思っていたに違いない。
その代表格は、弘徽殿女御(後の大后)である。
「女性から恨まれるようなことをするな」
という言葉は、そのまま院にお返しするほかない。人は誰しも、自分のことは棚に上げて、若い人にお説教をしたくなるものらしい。
(1)人のため恥がましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女の恨みな負ひそ