柏木(かしわぎ)
柏木は、太政大臣(かつての頭中将)の子息である。朱雀院が女三の宮の婿選びをなさっていたころ、自分こそはと思い、朱雀院にもそのように申し上げていたが、朱雀院は女三の宮の婿として光源氏を選ばれ、柏木の願いはかなえられなかった。
柏木は、女三の宮付きの小侍従(こじじゅう)という女房から女三の宮の様子を聞くことだけを慰めにし、「光源氏はかねてから出家したいという願いをお持ちのようだから、そのときこそは」などと、あらぬことを考えていた。
三月のうららかな日、六条院で夕霧たちと蹴鞠(けまり)をする機会があった。柏木が夕霧と並んで階(きざはし)に腰を下ろしていると、大きな猫が小さな唐猫(からねこ)を追いかけて走り出してきた。
猫につけてある綱が猫の体にからまり、その綱で御簾(みす)の端が引き上げられて、女三の宮の御殿の中がまる見えになった。少し奥まったところに袿(うちき)姿で立っている人がいる。
夕霧が大きな咳ばらいをすると、その人は奥の方へ引っ込んでいった。柏木は、あれこそ女三の宮だったと、胸のふたがる思いである。
このときから、どうしたらもう一度お姿を拝見することができるだろうか、どうしたら自分がこれほど慕っていることを知っていただけるだろうか、柏木は、そういうことばかりを考えている。
その後、柏木は、女三の宮の姉宮(異母姉)である女二の宮と結婚した。
しかし、女二の宮の母君(一条御息所)は更衣であるので、柏木の意に満たない。女三の宮の母君は、更衣よりも高い立場の女御(藤壺女御、藤壺中宮とは別人)である。蹴鞠の折に女三の宮の姿を見かけてから六年、柏木はなお女三の宮に恋い焦がれていた。
柏木は、胸の思いの一端だけでも女三の宮に聞いてもらえるように取り計らってほしいと小侍従に頼む。小侍従は厳しく拒んでいたが、やがて柏木の熱心さに負けて、難しいとは思うが適当な機会があったらと、返事をしてしまった。
賀茂(かも)の御禊(ごけい)の日の前日、女房たちは翌日の準備に忙しく、女三の宮の近くにいるのは小侍従だけである。女三の宮は御帳台(みちょうだい)で眠っていたが、男性の気配がするので、光源氏が来たのかと思って目を開けると、見知らぬ男である。柏木は、もう自制心を失い、夢中で女三の宮と交わってしまった。
柏木は、なんと大それた罪を犯したことかと思う。このときの柏木の思いについて、物語は、帝の后を犯すことは身の破滅につながる大罪であるが、今回のことはそれほどの大罪に当たることではないにしても、光源氏に睨まれることを思うと恐ろしいとする。
余談ながら、光源氏は桐壺帝の后である藤壺を犯したのだから、身の破滅につながるほどの大罪を犯したのだということが、ここで再確認されている。
やがて、女三の宮は懐妊、男御子の出産(薫)に至る。
光源氏は、幼子のような女三の宮と夫婦関係を持っていなかったのに、宮は懐妊したのである。さらに、柏木から宮に宛てた手紙を見つけて、光源氏は、事実関係のすべてを知った。
柏木は、思い悩んで病床に就き、もう生きる気力も体力もなくなって、ついに泡が消えるように亡くなった。
柏木は、周囲から将来を嘱望されるほどの立場にあったのに、自ら身を滅ぼしてしまった。その理由を考えると、大きな理由の一つは、皇女を妻としながら、母親の身分が更衣より高い立場の女御である皇女の方がより高貴であるという観念にとらわれたことである。
今日の時点に立って考えると、バカバカしい限りだが、この物語の時代の人々にそれなりに理解されうる一つの社会通念だったのだろう。
参考までに言えば、藤原道長が「男(をのこ)は妻(め)がらなり」と言ったとの記事が『栄花物語』に見える。この言葉は、道長の長男である頼道と具平(ともひら)親王の姫君(隆姫)との結婚に関して言ったものであるから、「男の値打ちは妻の家柄で定まる」という意味であると考えられる。
紫式部には、このような社会通念がひどく愚かしく見えたに違いない。