おほかたには
桐壺帝は、朱雀院への行幸に先立って、宮中で試楽を催された。その場で、光源氏は、青海波を見事に舞った。翌朝、光源氏は、藤壺に歌を贈った。
光源氏「もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや」(もの思いに心が乱れておりまして、舞どころではありませんでした。袖を振って舞う私の心を、察してくださったでしょうか)
これに対する藤壺の返歌である。
藤壷「から人の袖ふることは遠けれど立ちゐにつけてあはれとは見きおほかたには」(同)(唐土の人が舞ったという故事には疎いのですが、あなたの立居振舞には、感動しました)
歌に続けて書かれている「おほかたには」は、どういう意味だろうか。
小学館本(1)三一三頁注一七は、「感動が『おほかたにはあらず』の意。一説には逆に『おほかたにはあはれと見き』として、人並には感動いたしました、と解す。後者によれば、外聞をはばかるあまり藤壺ができるだけそっけなく押し通そうとする心情とみられる」とする(岩波本(1)二四二頁注一も、同旨)。
これに対し、新潮本(2)一三頁注一五は、「(その程度の)一通りには(理解いたしました)」とする。藤壺の内心を推察するに、このとき藤壺は光源氏の子を身ごもっており、光源氏との関係が世間に知られることを極度に警戒していた。だから、藤壺が光源氏の舞を人並み以上にほめそやしているということが外部に漏れ出てはならない。
すなわち、万一第三者がこの歌を見たときには、「おほかたにはあはれと見き」(人並み程度に、よかったと思いました)と読み取られなければならない。他方、光源氏を失望させることのないよう、光源氏には、「おほかたにはあらず」(並々ではないほど、すばらしいと思いました)と読み取られることが願わしい。
紫式部は、藤壺のこのような二つの思いを込めて、「おほかたには」と書いたものと考える。藤壺の歌を受け取った光源氏は、とてもうれしくて、持経のように、広げて、見入っていた。つまり、この歌を第三者に覗き見されても問題ないと、光源氏は判断したということであろう。
参考までに、「おほかたには」が著名作家によってどのように訳されているのか、拾ってみる。
與謝野晶子「一観衆として」(『全訳源氏物語一新装版』二七三頁、角川文庫)
谷崎潤一郎「普通の人の目で見ましたら」(『潤一郎訳源氏物語巻一改版』三〇三頁、中公文庫)
円地文子「ひとかたならず存ぜられました」(『源氏物語巻一』三一七頁、新潮文庫)
率直に言って、いずれも、なるほどそのとおりと、膝を打つような名訳であるとは言い難い。
女三の宮の成長
紫の上は、光源氏と決別して亡くなった。翌年の春のことである。失意の光源氏は、所在なさを紛らわそうと思い、女三の宮のところを訪れた。
光源氏が「山吹の花が見事に咲いたのですが、植えた人(紫の上)がもう亡くなったとも知らないようで、例年よりもいっそうきれいに咲いているのがあわれをそそります」と言ったのに対して、女三の宮は、ただ一言、「谷には春も」と返事をした。
「谷には春も」は、「光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし」(古今・雑下清原深養父、小学館本(4)五三二頁注三)を引くもので、要するに、「紫の上が亡くなられて、あなたが悲しまれても、私には関係のないことです」と言ったのである。
女三の宮の言い方が何気ない言い方だったので、光源氏は、もう少しほかの言い方もあるだろうに、情けないものの言い方をする人だと思った。元来、女三の宮は、幼い少女のようで、思慮深い人ではなかった。だから、光源氏は、そのような先入観を持って、女三の宮の返事を聞いた。
しかし、女三の宮は、過去の女三の宮ではない。柏木によって犯され、薫を出産した。光源氏の執拗な嫌がらせを受けて、出家した。その過程を経て、女三の宮は、成長を遂げた。紫の上が亡くなったことも、光源氏が茫然自失の状態にあることも、当然、知っていただろう。
自分と光源氏との間には、通い合うものが何もないことを嚙みしめていただろう。女三の宮が自分の心境を最も適切に表現するのは、「谷には春も」の一言だったのである。人は、さまざまな経験を経て、成長する。それを、紫式部は、「谷には春も」の一言で表現したのである。