【前回の記事を読む】日露戦争で活躍した、日本海軍の重巡洋艦、「吾妻」…バルチック艦隊との決戦で、敵艦に致命的な集中弾を浴びせ、戦後に勇名を馳せた。
中舞鶴 八月十三日
雄々しき情景
「測量図」には、半島の東側一帯に、海軍工廠の逆コの字型の諸施設が描かれている。「造兵工場」が幾棟と並び、半島の突端に向かって「船台」、「起重機」、「第二船渠」、「第三船渠」とつづく。
南の山側に、「海上自衛隊舞鶴総監部」があらわれた。「測量図」の同じ場所には「病院」、「機関学校」の表記があり、箱型の校舎が幾棟と描かれている。
詰所と立番所に、青い迷彩服を着た自衛官が立っている。露天のエントランスは二股になっていて、左のスロープの先がかつての「機関学校」の敷地だ。
今はその一画に「海軍記念館」があるはずだが、記念館の見学は後にし、工廠裏手の鎮守府と水交社の跡地を先にまわることにする。
歩道を港側に渡り、かつての海軍工廠、現「ジャパンマリンユナイテッド」の正門前に出た。正門の間口はゆうに十メートルはある。門前の踊り場の敷地も十五メートル四方はあるだろうか。トレーラーが十分に転回できる広さだ。
戦後、海軍工廠の廃止が決まった時、工廠の職工たちは、跡地を造船会社に再利用されることを望んだという。
船舶業界と無関係の資本に所有され、工廠の施設が跡形もなくとり壊されることを憂えたらしい。関係者の願いは叶い、舞鶴海軍工廠をはじめ、戦前の全国の工廠の多くは、造船会社に引き継がれ、旧工廠の職工たちも再雇用された。
彼らは、平和産業に衣替えした新たな造船の現場で、軍艦の建造で培った技術を、タンカーや商船の建造に発揮した。
造船業は、焦土から出発した日本経済の牽引役を担った。戦後間もない時期から、日本の造船業が海外から造船を受注するほどの高い水準にあったのは、戦前戦中に、同じようにこの国のために、軍艦を造りつづけた技術者の存在があったからだ。