リュックから「舞鶴水交社」の写真の載った絵はがきをとり出す。表の面に、舞鶴海兵団の鈴木さんの筆跡のある一枚だ。

写真を拡大  絵はがき【舞鶴水交社東宮殿下御宿泊所】

正門の左側に日の丸が掲揚され、門前に二人の衛兵が立っている。

円形の中庭の奥に立つ水交社の二階建ての洋館は、窓の上部に三角形のペディメントを配したモダンな造りだ。意匠を凝らした正門と、旧海軍の施設跡であることをささやかに示すこの石柱以外に、昔日の様子を伝えるものは何もなかった。

水交社は、士官以上の海軍人の福利厚生のための外郭団体だった。旅館や喫茶店も経営していたらしいが、利用できたのは幹部クラスの、いわゆる高級軍人にかぎられた。

現代ならば、無駄な法人の代表格としてすぐにも廃止の声が上がりそうだが、官尊民卑の時代ならではの組織だったといえるだろうか。

水交社の建物は戦後、連合軍に接収され、海上自衛隊の前身の海上警備隊が一時使用した後に、老朽化を理由に解体されたという。

水交社と鎮守府の建物は、戦時中に空襲で損壊している。

舞鶴軍港への最初の空襲は、昭和二十年七月二十九日だった。

土佐沖に遊弋(ゆうよく)する米機動部隊から発艦した一機の艦載機が、軍港上空を飛行中に、五百キロ爆弾一発を気まぐれのように投下した。

この一弾で、工廠の技手、工員、勤労動員中の学徒と引率教師たち、九十名が亡くなった。

本格空襲は翌三十日だった。米軍艦載機二百三十機は、舞鶴湾を含む近隣の宮津湾、伊根湾、小浜湾に停泊する艦船を攻撃目標に、早朝から夕刻まで数波にわたって爆撃を行った。

船のマストすれすれまで急降下する爆撃機に、舞鶴湾内の艦船は、高角砲や機銃で応戦したが、ほとんどの艦船が撃沈されてしまった。

夕刻に米軍機の去った湾内は、船の墓場のような惨状だったという。

 

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