【前回の記事を読む】寺の門前の石段の隅で蹲るように座る少女。脇には松葉杖が置かれていて気になったが……

中舞鶴 八月十三日

鉄道幻影

当時の政官界の役職は、すべて薩長土肥閥の藩閥人事で成り立っていた。東郷も山本と同じ薩摩藩出身だったが、山本は同じ薩摩閥ゆえに、東郷を連合艦隊司令長官という花形ポストに就けたわけではなかった。

山本は、明治二十六年に海軍の機構改革を行い、薩摩閥の将官、佐官九十六名に一斉に退職を申し渡し、代わって海軍兵学校出の将校を第一線に配置した。同郷人を優遇せず、能力を重視する人事は、当時の基準では英断に値するものだった。

山本と軍令部長の伊東祐亨は、軍事的才覚以上に、東郷の国際感覚に信頼を寄せていた。東郷は十年前の日清戦争に、巡洋艦「浪速」の艦長として従軍している。東郷の指揮する「浪速」は、緒戦の豊島沖海戦で、清国兵千百人と清国軍の兵器を運搬していたイギリスの民間汽船「高陞(こうしょう)号」を撃沈した。

イギリス国内では、自国の民間商船を沈めた日本海軍を断罪する世論が沸騰した。日本の朝野も狼狽をきわめた。世界に冠たる大英帝国の民間船を沈めたとあっては、イギリスからいかなる報復を受けるかわからず、戦争の帰趨にも計り知れない悪影響を及ぼす。

高陞号事件は、ジョン・ウェストレーキ、トーマス・アースキン・ホーランドといったイギリスの名だたる国際法学者が、東郷艦長の撃沈指令は戦時国際法のいかなる条文に照らしても適法、と世界に公言したことから、イギリスの反日世論は鎮まり、一転して東郷の高い国際法の見識が称賛された。

東郷は、明治四年から八年間、海軍士官としてイギリスに官費留学し、商船学校で英語と航海兵科を学び、国際法の習熟にも努めた。

外交問題を軍事力で解決できる国家が、一等国とみなされていた時代だった。

日清戦争は、近代世界に参入した日本が、欧米列強国から等し並みの近代国家として承認されるための最初の本格的な対外戦争だった。勝算と戦費調達の見通しの立たないまま開戦を決断した日露戦争も、既成の国際秩序のなかで、日本の国家的地位を向上させることを命題としていた。