【前回の記事を読む】【旧中舞鶴線跡】二つの地図を手に失われた鉄路をたどる旅。舞鶴に根付く土地の記憶、「今」と「かつて」が重なって見えてくる。
中舞鶴 八月十三日
鉄道幻影
「測量図」には気になる表記がある。北吸トンネル付近の南側の小山に「忠魂碑」の文字がぽつんとあるのだ。この碑は今も存在するのだろうか。
線路跡はトンネルを抜けた先を西に湾曲して延びていたが、一旦、遊歩道を逸れ、南の山麓沿いの隘路を行ってみることにした。忠魂碑へ至る登山道の入口が見つかるかもしれない。
幅二メートルほどの隘路は、軒の低い人家と小山の間をくねりながら延びていた。東側の山裾の一隅に、間口一メートルほどの穴が穿たれていた。なかを覗くと、土砂が堆積していて奥までは見通せない。すぐ先にまた同じような穴があらわれた。こちらの穴の前には、立ち入れないようにロープがめぐらされていた。
かつての防空壕だろうか。『舞廠造機部の昭和史』によれば、戦時中は各町会の主導で山裾に公共退避壕が掘られたらしい。防空壕ならば、内部はかなりの人数が身を潜められる広さがあるのかもしれない。
三十メートルほど行くと、山裾に「真宗 三宝寺」という寺があった。
門前の石段の隅に、女の子が蹲(うずくま)るように座っていた。脇に松葉杖が置いてある。気になったが、声をかけずに門をくぐった。
数メートルほどの短い参道の先に、切り立つ山裾に圧(お)されるような格好で、本堂がわずかばかりの平地に窮屈そうに立っていた。
左手の一画に、幽冥界の情緒に不釣りあいな、トーチカのような殺伐とした構造物がある。コンクリート製で、間口、奥行きともに二メートルほど、高さもそのくらいだろうか。入口は錆びた鉄の扉に閉ざされ、扉の上部から五十センチほど出っ張った庇(ひさし)に、判読できない漢字が羅列されている。
奇妙なのは、扉を塞ぐような形で、底部から庇まで斜めに設(しつら)えられた直方体のコンクリート塊だ。こちらには「昭和十一年九月開山彗光院作之」と刻まれている。建物脇の階段をのぼってみると、頂部一帯は緑色の苔に覆われていた。
奇妙なこの構造物は何なのだろう。と、本堂から出てきた親子連れと目があった。見かけない人間が妙なことをしていると訝(いぶか)しんだに違いない。さりげない風を装って階段を降り、そそくさと寺を出た。
女の子はまだ門前に蹲っていた。大丈夫ですか。耳元に声をかけると、女の子は同じ姿勢のまま小さく頷いた。どっか痛むんですか、と問うと、首を左右に振った。どうしたものかと戸惑ったが、女の子は顔をあげる様子がないので、その場を後にした。
隘路は鳥居の前を直角に曲がり、先の県道に通じている。神社の端から山腹へ向かってけものみちが延びていたが、遊歩道の本筋に戻ることにした。今日はどれほどの距離を歩くことになるかわからない。ここは体力を温存することにし、登山道探しはあきらめた。