隘路を抜けた先の県道には、瓦屋根の古風な人家が連なっていた。
右手のアパートの植え込みに、黒く褪せた四角い石が置かれている。高さ、奥行きは約二十センチ、底面の横幅は七十センチほど。背後の説明板に「歴史を刻んだ敷石」とある。
かつて東郷平八郎が、初代舞鶴鎮守府司令長官として赴任した際に、官舎が完成するまでの間、この界隈の人家に仮住まいし、その家の庭で使用されていた敷石だという。東郷平八郎が縁側から庭へ降りる時に、足場として用いていたもののようだ。
東郷平八郎は、海軍連合艦隊司令長官として日露戦争にのぞみ、日本海海戦で海戦史上空前の圧倒的完勝を遂げ、世界史にその名を刻んだ軍人だ。
バルチック艦隊との決戦で、東郷艦隊が開距離八千メートルで行った二直角大回頭は、世界の海軍人から「トーゴー・ターン」と讃えられた。
戦後の日本でも「軍神」と謳われ、生きながらにして畏敬の存在となった東郷は、昭和九年五月三十日に八十六歳で鬼籍に入ると、生前の謂(い)われのままに「神」になった。昭和十五年に創建された「東郷神社」は、平成の世にも東郷平八郎の盛名を伝えている。
東郷が初代司令長官を務めた海軍舞鶴鎮守府は、明治三十四(一九〇一)年十月に、舞鶴軍港の竣工とともに開庁した。
軍港の監督機関は、軍港の規模によって、鎮守府、警備府、要港部の三段階に分かれた。鎮守府は、兵員の徴募、訓練、補給施設の管理、作戦の立案など、軍政と軍令の両面を司り、艦隊根拠地となる大規模な軍港のみに設置された。最高レベルの監督機関の鎮守府は、全国の数ある軍港のなかで、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の四港にしかなかった。
東郷の鎮守府司令長官の在任期間は、二年余りと短い。日露関係の窮迫を受け、開戦二ヶ月前の明治三十六年十二月に、連合艦隊司令長官に転任したからだ。
海軍大臣の山本権兵衛は、日露開戦の際は、国家の命運を担う連合艦隊司令長官の顕職を、東郷に託すことを決めていたという。