その意味で、日清、日露戦争時の日本には、戦時国際法という絶対規範があった。日露戦争の連合艦隊司令長官に、戦争の国際ルールに通暁した東郷を起用したことはきわめて戦略的だったし、従軍した多くの指揮官も、戦争の背後に欧米諸国の存在を強く意識していた。

昭和の大東亜戦争は、明治以降の近代日本が適応を図りつづけてきた、国際秩序そのものの刷新を目的としていたといえる。軍人だけでなく、大多数の国民も主観的にそのように捉えていた。

大東亜戦争にのぞむに当たり、日本人が拠って立つべき新たな規範とは何だったのか。日本人はその倫理感覚に正しくひらかれることができなかったというのが、私の見立てだが、大東亜戦争のことは追って語りたい。

東郷平八郎が足を乗せたという敷石の表面を、手でさすってみた。

東郷は、鎮守府司令長官として舞鶴に赴任した時、五十三歳だった。自らの軍歴はここで終わるものと思っていたらしい。仮官舎の人家に入居し、この敷石を踏んで庭に降りた東郷は、後に自らの名が世界史に刻まれることなど、夢にも思わなかっただろう。

雄々しき情景

遊歩道に合流し、西へ。

南側の山麓に「三宅神社」という社号標が立っていた。歩道から山の上の社殿に向かって急勾配の石段がのびている。この神社は「測量図」には載っていないが、「新舞鶴市街図」には記載がある。

かつての海軍の諸施設は、この神社から西へ、北の港側と南の小山に大々的に展開していた。民間人はここより西へは、中舞鶴線に乗車しての移動以外は、通行を禁じられていた。

「測量図」には、北の港側に「海軍工廠軍需部」の表記があり、施設の棟を表す四角い箱型の模様が幾つも描かれている。施設の前に「東門」の文字がある。軍需部への入場口であり、検問所でもあったのだろう。

「新舞鶴市街図」には、その「東門」の近くに中舞鶴線の「とうもん」という駅が記されている。この駅の位置は今、遊歩道の右手にあるセブン‒イレブンの辺りとおぼしい。

セブン‒イレブンに寄ってコーラを買い、喉を潤しながら、店の敷地周辺を散策してみたが、駅の痕跡はとくに目につかなかった。

遊歩道はほどなく国道二十七号線と合流して終わった。

 

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