【前回の記事を読む】清国兵1000人と兵器を乗せたイギリス民間商船を撃沈させた日本。日本を断罪しようとイギリスの反日世論が沸騰し…

中舞鶴 八月十三日

雄々しき情景

二十七号線は、京都市街まで延びる幹線道路だ。東舞鶴の市街地界隈では、昨日少し歩いた大門通りと称されている。「測量図」によれば、これより先の中舞鶴線は、この国道の山麓沿いを、中舞鶴の市街地までまっすぐに鉄路が延びていた。

北側に赤い煉瓦の建物が幾棟とあらわれた。建物の間を行き交う大勢の人の姿が見える。「測量図」に「兵器庫」と記載されたあの煉瓦棟は今、「舞鶴赤れんがパーク」という観光名所になっている。

盛大にたなびく群青が見えた。

港だ。

夏雲を張りめぐらした空から、陽光が眩暈をおぼえるほどに白く零れている。

歩を進めるたびに、汗の伝う全身を潮風が幾重とくるむ。

にわかに、気分が浮き立つ。

もう何度目だろう。また出会うことができた。

いつまでも、歩きつづけたいと願う道に。

それはいつも、忽然とひらかれる。逸(はや)る思いのままに行くと、どこかでかりそめに終わる。時を違え、新たに訪れた別の土地で、ふいにそのつづきと邂逅する。陶然と歩むうちに、まだ先のある余韻だけを残し、また閉じる。

私の記憶のなかには、時間も場所も季節も超えて、遙かしいひとすじをなした道がある。旅をつづけるかぎり、果てしなく延びていくだろう、この道のつづきと、舞鶴でも出会うことができた。

戦前は、軍事施設の密集するこの区間は、線路沿いに延々と遮蔽材がめぐらされ、中舞鶴線の車内から屋外の景観は一切眺められなかったという。

「海軍の街」や「軍都」と聞くと、今日の時世からは物騒な響きがあるけれど、舞鶴の住民は、軍事施設の象徴である舞鶴鎮守府を、親しみを込めて「舞鎮」と呼び、舞鶴海軍工廠を「舞廠」と呼んでいた。

明治三十四年十月、舞鶴軍港の竣工にあわせ、舞鶴造船廠が創設された。当初は、艦艇の修理や小型雑舟艇の建造を担う小規模な施設だったため、造船廠という名称だった。

明治三十六年十一月に、兵器廠と需品庫が加わり、軍艦の建造も可能となったことから、舞鶴造船廠から舞鶴海軍工廠に改編された。「廠」という文字は今日では馴染みがないけれど、造船廠とは造船所、工廠とは工場のことだ。

舞鶴海軍工廠は、三十八年に駆逐艦「追風(おいて)」を起工して以来、駆逐艦専門工廠としての歴史を歩んだ。駆逐艦は艦隊決戦の際、先陣を切って敵艦に迫り、魚雷を発射する攻撃的な艦艇だ。速力を身上とし、小型で軽量、防御性能も低い分、乗員の士気が決死的に高まる軍艦だった。

大規模な海軍施設の建設は、いわば国主導の公共事業だ。舞鶴にやってくる軍人や職工、この人々の家族のもたらす総需要は、住宅や道路、学校などの社会インフラに加え、新舞鶴という新たな街を造りあげた。

市井の人々は、地元経済を支える海軍の施設と海軍人に、格別な思い入れを抱いていた。連合艦隊が入港した折には、三舞鶴の住民は、街を挙げて歓待した。

二万四千人を超える艦隊将兵の滞在中の宿泊先は、ほとんど一般の民家が受け入れた。

海軍記念日などの慶事には、軍人と住民が一緒に街を祝賀行進した。海軍主宰の相撲大会や運動会もたびたび開かれた。

催事では、戦闘機が一般公開された。駆逐艦の魚雷試演発射や、水上機の宙返りなどの高等飛行も披露され、見物の親子連れは、迫力満点の妙技に拍手喝采を送った。

舞鶴の人々にとって海軍は、暮らしを彩る、雄大な風景だった。

蒼茫の下の二十七号線は、右に大きく旋回した。

カーブの途中の山側に、「マリンボウル」というボウリング場があった。吹き抜けの駐車場から、背面の山の懸崖がわずかに覗き、山裾の一画に色褪せた煉瓦塀が見えた。