駐車場を横切り、傍まで行ってみると、高さ三メートルほどの煉瓦は白く変色し、二メートルほどの間口を塞ぐ木製の扉は、朽ちかけて斜めに傾いていた。扉の隙間からなかを窺うと、内部は思いのほか狭く、土砂やゴミが散乱していた。

ボウリング場と山の傾斜の間に、幅五十センチほどの排水溝がある。「測量図」の同じ地点には、軍需部から小山の中腹の「艦材置場」まで水路が延びている。

排水溝から先の水路は今、コンクリートで埋められている。山の上の艦材は、かつてここにあった水路を通じて軍需部まで運搬されていたのだろう。煉瓦塀に囲われたこの空間は、その作業のための事務所か、艦材の仮置き場だったのかもしれない。

二十七号線の歩道に戻り、再び西へ。

国道の信号機に「自衛隊桟橋」の表示。

銀色に燦(きら)めく港湾に、鈍色(にびいろ)の艦艇が碇泊している。自衛隊の護衛艦だ。

港には、大勢の観光客に混ざって、青い迷彩服を着た自衛官の姿もある。護衛艦は一般人も見学できるようだ。

舞鶴湾をめぐるクルージング船は、この港から出ているのだろうか。

平仮名の「ら」の字のようといわれる独特の地形の舞鶴湾内をめぐるクルージング船からは、かつての海軍工廠の船渠も眺められるらしい。

山裾の叢に「赤れんが配水池(旧海軍第一配水池)」という看板があった。

「測量図」にも同じ箇所に「貯水場」とある。軍港の周辺には、様々な施設が付随して造られていた。「貯水場」は、艦艇に飲料水などの真水を供給するための施設だろう。港の西側から、半島の緑樹が鮮やかに迫る。

かつて工廠の枢要な施設が展開していた半島の湾に近いエリアは、今「ジャパンマリンユナイテッド」、通称JMUという造船会社になっている。湾内に〈wisdom line〉と船腹に書かれた巨大なタンカーが二隻、停泊している。

工廠の時代に、日露戦争で活躍した重巡洋艦「吾妻」が係留されていたのは、この辺りだろうか。

「吾妻」は現役を退いた後も、海軍思想普及艦という名目で、長らく舞鶴港に留め置かれ、衆目を集めていたという。

「吾妻」は日露戦争時、上村彦之丞司令長官の第二艦隊第二戦隊の三番艦だった。上村戦隊はバルチック艦隊との決戦で、敵艦に致命的な集中弾を浴びせたことから、戦後に勇名を馳せた。

 

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