その夜は、母の隣で眠った。母の寝息を聞きながら、私は天井を見つめていた。
認知症が進行すると、こういうこともあるのだ。現実と夢の区別がつかなくなる。亡くなった人が生きていると思い込む。
それは、母にとっても辛いことだろう。愛する人が目の前にいると思ったのに、実はいない。その喪失感は、計り知れないものがある。
私は母の手を握った。冷たくなっていた手が、少しずつ温まっていった。
「大丈夫だよ、お母さん。私がいるから」
第十章 記憶を紡ぐ
母の症状が進むにつれて、私は母の記憶を記録することに力を入れるようになった。
日記をつけるだけでなく、母の昔話を録音するようになった。母がまだ覚えていることを、できるだけ多く残しておきたかった。
「お母さん、昔の話を聞かせて」
ある日、私はスマートフォンの録音機能を起動して、母に話を促した。
「昔の話? 何の話?」
「何でもいいよ。子供の頃のこと、お父さんとのこと、私が小さかった頃のこと」
母は少し考えて、話し始めた。
「私が子供の頃はね、まだ戦後の混乱期でね。食べるものも十分じゃなかったのよ」
「そうなんだ」
「でも、母――あなたのおばあちゃんね――は、いつも工夫して美味しいものを作ってくれたわ。芋のつるを炒めたり、野草を摘んできてお浸しにしたり」
母は遠い目をして、昔を懐かしんでいた。
「おばあちゃんは、どんな人だったの?」
「優しい人だったわ。私が学校でいじめられたときも、『気にしなくていい。あなたはあなたのままでいい』って言ってくれた。その言葉、今でも覚えてる」
「素敵なおばあちゃんだったんだね」
「ええ。私も、あなたにはそういう母親でいたいと思ってたの」
母は私を見つめた。
「恵美、私はいい母親だったかしら」
私は母の手を取った。
「最高の母親だよ」
「本当?」
「本当。お母さんがいてくれたから、私は今こうしていられるんだから」
母は嬉しそうに微笑んだ。
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