第一章 診断の日
あの日の空は、どこまでも澄み渡っていた。
11月の東京には珍しく、雲ひとつない快晴だった。私は病院の待合室で、膝の上に置いた両手をじっと見つめていた。白い壁、消毒液の匂い、どこかで聞こえる看護師の足音。すべてが妙に現実離れして感じられた。
「杉山さん、どうぞ」
名前を呼ばれ、私は母の手を取った。73歳になる母の手は、思っていたよりも小さく、そしてほんの少しだけ震えていた。
診察室に入ると、白髪交じりの医師が穏やかな表情で私たちを迎えた。机の上には、先ほど撮影したMRIの画像が映し出されていた。脳の断面図。私には何がなんだかわからなかったが、医師の表情を見て、良くない知らせが待っているのだろうと直感した。
「検査の結果、軽度認知障害、いわゆるMCIと診断させていただきます」
医師の言葉は、静かな水面に落ちた小石のように、じわりじわりと広がっていった。母は何も言わなかった。ただ、膝の上で組んだ手を、ぎゅっと握りしめただけだった。
「認知症に進行するケースもありますが、適切な対応をすれば現状維持、あるいは改善する可能性もあります」
医師は丁寧に説明を続けた。脳トレーニングの重要性、規則正しい生活、社会との接点を保つこと。私はメモを取りながら、必死で医師の言葉を追いかけた。しかし、頭の半分では別のことを考えていた。
なぜ母が。どうして今。
帰りの電車の中で、母はずっと窓の外を眺めていた。夕日に染まる街並みが、オレンジ色の光に包まれていた。
「お母さん、大丈夫だよ」
私が声をかけると、母はゆっくりと振り向いた。その目には涙が浮かんでいた。
「ごめんね」
母が発した最初の言葉は、謝罪だった。
「何を謝ってるの。病気は誰のせいでもないよ」
「でも、迷惑かけることになるでしょう」
私は母の手を握った。その手は、まだ少し震えていた。
「迷惑なんかじゃない。これからも、一緒に暮らすんだから」
電車は揺れながら進んでいく。車窓の外では、街の灯りがひとつ、またひとつと点り始めていた。