【前回記事を読む】最初は笑い話だった、母の異変…野菜室から家のカギが…さらに決定的だったのは、親戚の集まりで…

第一章 診断の日

診断から数日が経った。

母は表面上は普段通りに振る舞っていたが、どこか元気がないように見えた。食事の量が減り、テレビを見ていても上の空のことが多くなった。

「お母さん、大丈夫?」

「え?   ええ、大丈夫よ」

母は笑顔を作ったが、その笑顔はどこか作り物のようだった。

ある夜、私が自分の部屋で本を読んでいると、隣の母の部屋から小さな物音が聞こえた。何かを探しているような音。私は気になって、そっとドアを開けた。

母は押し入れの前に座り込み、古いアルバムを広げていた。

「お母さん、何してるの?」

「ああ、恵美」

母は振り向いて、少し照れたように笑った。

「昔の写真を見てたの。忘れないうちにね」

私は母の隣に座った。アルバムには、私が幼い頃の写真がたくさん貼られていた。運動会で一等賞を取ったとき、七五三の晴れ着姿、家族で行った海水浴。

「これ、覚えてる?」

母が一枚の写真を指さした。私が3歳くらいのときの写真だ。公園のブランコに乗って、満面の笑みを浮かべている。

「お母さんがブランコを押してくれてたんだよね」

「そう。あんた、すごく怖がりでね。最初は泣いてたのよ。でも、何回か押してあげたら楽しくなったみたいで、『もっと高く! もっと高く!』 って大はしゃぎだったわ」

母は懐かしそうに目を細めた。その表情を見て、私は少しだけ安心した。この記憶は、まだ母の中にしっかりと残っている。

「お母さん、私ね、病院で先生に言われたことがあるの」

「何?」

「軽度認知障害は、適切な対応をすれば進行を遅らせることができるんだって。だから、これからも一緒に頑張ろうね」

母は黙って私の手を握った。その手は、あの日病院で握った時よりも、少しだけ温かく感じられた。

「ありがとう、恵美」

その夜、私たちは夜中までアルバムを眺めていた。父との出会い、結婚式の日、私が生まれた日。母の記憶の中に刻まれた大切な瞬間を、一緒にたどっていった。

「この写真、初めて見るかも」

私が一枚の写真を指した。若い頃の母が、着物姿で立っている写真だった。

「これはね、お父さんと初めて会った日の写真よ」

「えっ、そうなの?」

「うん。お見合いだったの。すごく緊張してたわ」

母は遠い目をして微笑んだ。

「お父さんは無口な人でね。お見合いの席でもほとんど喋らなかったの。でも、帰り際に『また会いたい』 って言ってくれてね。あの一言で、この人と結婚しようって決めたのよ」

父は5年前に他界していた。心筋梗塞だった。

突然の出来事で、母も私も心の準備ができていなかった。葬儀の日、母は一粒の涙も見せなかった。でも、その夜、父の寝室で一人泣いている母の姿を、私は偶然見てしまった。

「お父さんのこと、今でも覚えてる?」

私がそう聞くと、母は少し寂しそうに笑った。

「もちろんよ。お父さんのことだけは、絶対に忘れたくないの」

その言葉を聞いて、私の目から涙がこぼれた。