第二章 日常の中の葛藤

診断から1ヶ月が過ぎた頃、私たちの生活は少しずつ変化していった。

母の物忘れは、以前よりも頻繁になったような気がした。朝食を食べたことを忘れて、「今日はご飯まだ?」と聞いてくることが増えた。同じ話を何度も繰り返すことも多くなった。

「お母さん、その話、さっきも聞いたよ」

つい、そう言ってしまうことがあった。言った瞬間に後悔するのだが、もう遅い。母は決まって申し訳なさそうな顔をする。

「あら、そうだったかしら。ごめんなさいね」その表情を見るたびに、私の心は痛んだ。

ある日、母が鍵を失くしたと言って家中を探し回っていた。私は仕事で疲れていて、正直なところ、付き合う気力がなかった。

「お母さん、鍵は玄関の鍵掛けにあるでしょ」

「見たけど、なかったのよ」

「ちゃんと見た?」

私は玄関に行き、鍵掛けを確認した。案の定、鍵はそこにあった。

「ほら、あるじゃん。ちゃんと見てよ」

声が荒くなっているのが、自分でもわかった。母は黙って鍵を受け取った。その顔には、傷ついたような表情が浮かんでいた。

「……ごめんね」

母のその一言が、私の胸を刺した。

なぜ、優しくできないのだろう。病気のせいで物を忘れてしまうのは、母が悪いわけじゃない。頭ではわかっている。でも、感情がついていかないことがある。

その夜、私は自分の部屋で一人、泣いた。

情けなかった。母に優しくできない自分が。小さなことでイライラしてしまう自分が。病気と闘っているのは母なのに、私のほうが参ってしまっている。翌朝、私は母に謝った。

「昨日はごめん。声を荒らげて」

母は優しく微笑んだ。

「いいのよ。恵美も大変でしょう。仕事しながら、私の面倒も見てくれて」

「面倒なんかじゃないよ」

「ありがとう。でもね、無理はしないでね」母のその言葉に、また涙が出そうになった。

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