【前回記事を読む】ある日仕事から帰ると、母がキッチンで立ち尽くしていた…母は困惑した顔で、冷蔵庫を見つめ、「冷蔵庫を開けて…」
第八章 変化
しかし、そのような出来事は増えていった。
料理の手順を忘れる。テレビのリモコンの使い方がわからなくなる。自分の部屋がどこかわからなくなる。一番ショックだったのは、母が私の名前を呼べなかったときだった。
ある朝、私が母を起こしに行くと、母は不安そうな表情で私を見た。
「おはよう、お母さん。朝だよ」
「……あなたは……」
母の言葉に、私は凍りついた。
「恵美だよ。娘の恵美」
「恵美……」
母は私の顔をじっと見つめた。そして、ゆっくりと頷いた。
「ああ、恵美ね。ごめんなさい、寝ぼけてたわ」
「大丈夫だよ。起きたばかりだもんね」
私は平静を装った。でも、心臓は激しく鳴っていた。
母が私を認識できなかった。ほんの一瞬とはいえ、私が誰かわからなかった。その事実が、重くのしかかってきた。
その夜、私は一人で泣いた。
覚悟はしていたつもりだった。いつかこういう日が来ることは、わかっていた。でも、実際にその瞬間を迎えると、想像以上に辛かった。
私は母にとって、誰よりも大切な存在だと思っていた。母も、私のことを誰よりも愛してくれていると信じていた。その母が、私を認識できなくなりつつある。
「3度の死」という言葉が、頭をよぎった。
1度目の死――アイデンティティの消失。自分が誰かわからなくなる、精神的な死。
母は今、その境界線に立っているのかもしれない。少しずつ、母の中から「母」が失われていく。私の母であった記憶、妻であった記憶、一人の女性として生きてきた記憶。それらが、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
私には、それを止める力がない。
できることは、ただそばにいること。母が何を忘れても、私が覚えていること。母の人生を、語り継ぐこと。私は涙を拭いて、深呼吸をした。
泣いている場合じゃない。母はまだここにいる。まだ一緒に笑える。まだ一緒に過ごせる。その時間を、大切にしなければ。後悔しないように。
私は立ち上がり、鏡の前で顔を洗った。泣き腫らした目を冷水で冷やし、深呼吸を繰り返した。明日からも、母と一緒に生きていく。笑顔で。できる限りの愛情を込めて。