翌朝、私はいつもより早く起きて、母の好きな朝食を作った。

焼き鮭、出汁巻き卵、ほうれん草のおひたし、豆腐の味噌汁。母が若い頃から好んでいた、昔ながらの和朝食だ。

「おはよう、お母さん」

母の部屋に行くと、母はもう目を覚ましていた。私を見て、微笑んだ。

「おはよう、恵美」

私の名前を呼んでくれた。その一言が、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。

「今日はね、お母さんの好きな朝ご飯作ったよ」

「あら、嬉しい」

母は私に手を引かれて、ダイニングに来た。テーブルの上に並んだ料理を見て、目を丸くした。

「まあ、豪華ね」

「たまにはね」

私は母の向かいに座った。

「いただきます」

「いただきます」

母は箸を取り、焼き鮭を一口食べた。

「おいしいわ」

「よかった」

私たちは静かに朝食を食べた。テレビはつけなかった。ただ、二人で食事をする時間を、大切にしたかった。

「恵美」

「なに?」

「ありがとうね」

母の言葉に、私は首を傾げた。

「何が?」

「こうして、毎日ご飯を作ってくれて。私の面倒を見てくれて」

「当たり前のことだよ」

「当たり前じゃないわ。あなたにも仕事があるのに。自分の生活があるのに」

母は箸を置いて、私を真っ直ぐに見つめた。

「私ね、最近自分が怖いの」

「怖い?」

「どんどん忘れていってる気がするの。昨日何を食べたか、今日が何曜日か、そういうことがわからなくなることが増えてきた」

私は黙って聞いていた。

「いつか、恵美のことも忘れちゃうんじゃないかって。それが一番怖い」

母の目に涙が浮かんだ。

「私にとって、恵美は一番大切な人なの。その恵美のことを忘れるなんて、考えただけで……」

「お母さん」

私は母の手を握った。

「忘れてもいいよ」

「えっ……」

「お母さんが私を忘れても、私はお母さんを忘れないから。私がお母さんの記憶を守るから」

母は泣いていた。私も泣いていた。

「それにね、お母さん。たとえ頭で忘れても、心は覚えてると思うんだ」

「心?」

「うん。お母さんが私を愛してくれた気持ち、私がお母さんを愛してる気持ち。それは、記憶がなくなっても消えないと思う。だから、怖がらなくていいよ」

母は私の手を強く握り返した。

「恵美……」

「大丈夫。私がそばにいるから。ずっと」

私たちは手を握り合ったまま、しばらく泣いた。朝の光が窓から差し込んで、テーブルの上の料理を照らしていた。

冷めてしまった味噌汁を、私は温め直しに立った。でも、心は温かかった。