実を言えば、母の異変に気づいていたのは、診断を受けるよりもずっと前のことだった。

最初の違和感を覚えたのは、半年ほど前のことだったと思う。母が鍵を探して家中を歩き回っていた。

「お母さん、鍵どこにやったの?」

「さっきまで手に持ってたのよ」

母は困惑した表情でリビングを見回していた。ソファのクッションの下、テレビ台の引き出し、花瓶の陰。あらゆる場所を探し回る母の姿を、私は少し呆れながら眺めていた。

「また失くしたの? この前も同じこと言ってたよね」

「そうだったかしら」

結局、鍵は冷蔵庫の野菜室から見つかった。なぜそんな場所に入れたのか、母自身にもわからないようだった。

「年を取ると物忘れがひどくなるわねえ」

母は笑ってそう言った。私もそのときは、単なる老化現象だと思っていた。70を過ぎれば、誰でも物覚えが悪くなる。そう自分に言い聞かせていた。

しかし、同じようなことが繰り返されるようになった。

買い物で同じものを何度も買ってくる。冷蔵庫を開けると、同じ銘柄のマヨネーズが3本も並んでいることがあった。

「お母さん、またマヨネーズ買ってきたの?」

「あら、まだあったの? 在庫を確認しなかったわ」

最初は笑い話で済んでいた。しかし、同じことが牛乳でも、卵でも、トイレットペーパーでも起こるようになると、さすがに心配になってきた。

決定的だったのは、親戚の集まりでのことだった。

お盆に、母の姉である伯母が我が家を訪れた。二人は昔から仲が良く、会えば何時間でもおしゃべりをするような関係だった。

「久しぶりね、元気だった?」

伯母が母に声をかけた。すると母は、一瞬だけ戸惑ったような表情を見せた。

「……えっと」

「どうしたの?」

「ごめんなさい、あなたは……」

その場が凍りついた。伯母の顔が驚きで強張った。私は慌てて間に入った。

「お母さん、伯母さんだよ。お姉さんの美代子伯母さん」

「あら、そうだったわね。ごめんなさい、ちょっとぼんやりしてて」

母は笑って誤魔化したが、伯母の表情には明らかな不安が浮かんでいた。その夜、伯母は私にこっそり耳打ちした。

「恵美ちゃん、お母さんのこと、一度病院で診てもらったほうがいいんじゃないかしら」

私は頷いた。心のどこかで、この日が来ることを予感していた。

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