【前回の記事を読む】入学後まもなくして、クラスの人気者が「相談したいことがある」と…父親は会社経営者だという彼が、団地暮らしの自分に…

私が空を飛ぶ理由~つばめのつばさ~

全てを持っていた平井君

インターホンからはお手伝いさんと思しき声の後にややあって、いつもの元気な声がした。平井君は学校では詰襟のボタンをはずし、胸元から白く輝くTシャツを見せていた。その日玄関に現れた彼のふだん着は、さりげない中にさらにおしゃれに見えた。

スリッパをはいて外光の眩しい吹き抜けのリビングを抜け、森林の匂いのする階段を上がって彼の部屋に案内された。

そこは私の家のどの部屋よりも広く、南側は全面が窓だった。平井君はベッドに腰かけると、立てかけていた二台のギターからエレキのほうを持ち出し、小さなアンプにつないで弾いてみせた。

「レッド・ツェッペリンの『天国の階段』。知っとる? まだ少ししかできないんやけど、どう?」と照れ臭そうだ。

中学一年だぞ、かっこいい以外に何があるよ。平井君は育ちのよさからか、半分地元の方言、半分標準語のようなしゃべり方をした。

彼は家の裏手の納屋にドラムのフルセットまで持っていた。

「まだ始めたばかりなんやけどさ」と笑いながら鳴らし始めた。初めて聴くドラムの生音に、心臓がバクバクした。

最後にジャーンとシンバルを慣らし、手で余韻を止めると彼は私の眼を見て言った。

「あのさ、いっしょにバンドやろう?」

私はバンド自体よくわからなかったけれど、そこには知らない新しい世界が開けていると確信できた。私は「いいよ」と返した。

平井君は楽器を持ったことのない私に、アコースティックギターを貸してくれるという。私は初心者向けの教本と、大きな黒いケースを抱えて帰宅した。母親は「お父さんが帰ってきたら怒られるよ」と心配した。

案の定父にこっぴどく叱られ、すぐにギターを返してこいと命じられた。夜道を歩きながら泣きたくなった。

玄関に出てきた平井君に「ごめん」と謝った。彼は「それぞれの家の事情があるからしゃあないよ」と笑ってギターを受け取ってくれた。

バンドという形では実らなかったが、でこぼこの二人の友情は中学の三年間続いたのだった。

私は通りを何度も往復しながら当時のことを細かく思い出していた。まちがいなく平井君の家はこのあたりにあった。それらしき門構えの表札も確認したが、あの日に見あげた家の姿はなかった。彼はどこに行ってしまったのだろう。

通学路をたどっていたことを忘れて、平井君のその後を考えていた。

そう、私は高校を卒業して東京に出て、親は実家に帰った。結婚して家を買い、離婚して新たな家に住んでいる。

彼にだっていろいろあったにちがいない。時は知らないところで、あらゆるものを変えていた。