ありがたく嬉しかったのは、初の女王に就いたのに気おくれしていたままであった我に、大王家の祖神「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の例を出して奮い立たせてくれた。

さらに我も仏教の興隆を進めようといささか学んでみたが、釈尊(しゃくそん)は女の身での悟りには一言も触れず見過ごしていると躊躇していたところ、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』を解釈して女子でも悟りに近づくのは可能と教えて励ましてくれたのだ。

大陸で勃興した隋との国交では、朝鮮半島で新羅が任那を侵(おか)したため、新羅を懲らしめるための兵を送り勢威を示した。その勢いのままで初の使いを送り、古(いにしえ)からの倭国のありようを説明するも、隋帝からは倭国の古い体制や政のやり様を侮蔑され、隋の仕組みを習い国の形を改めるよう使者を諭して追い返された。

倭国の立場上不面目極まりなく、正規の遣使とはせずに済ませることとした。はなはだ不名誉な仕儀となったのである。そのような経過を踏まえて、今後隋との交渉は、渡来僧などから彼の地の様子に気配りしている太子に任せることになるのである。

そして、額田部女王の即位九年目の年(六〇一年)。

厩戸太子から外交における提案があった。

「大国隋との交渉においては、我が国も古より豊かな歴史を有する国として確かとした大王家の足跡を定める必要がある。

今年は磯城島大王が崩御されて節目の三十年の年で、奇しくも干支は辛酉(しんゆう)にあたり、「天命が革(あらた)まる」年として大いに世の変わる時とされており、我が王祖「彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)(神武天皇)」の即位を、歴代大王の在位年を数え加えて、今より千二百六十年遡(さかのぼ)った辛酉の年(紀元前六六〇年)に決めて、その後の大王家の史籍を綴ることにしたい」との申し出があった。

額田部女王は大王家にとっても誇るべき話であり、太子も仏教ばかりではなく祖神をも敬ってくれていることに嬉しく思い即座に許したのである。

ところが太子は、それを機に飛鳥から四里ほども離れた斑鳩の里に新たに居を移し、隋との交易路を整備するとともに新制度の考案さらに仏教研鑚の地としたいとの願いがあった。額田部女王は、それまで我と蘇我馬子と三人で政務をうまく進めてきたゆえ、側にいて欲しいと説得したが、必要であればいつでも馬で飛鳥に参上しようと押し切られてしもうた。

確かに飛鳥での雑事から離れて、斑鳩の地で「十二階の官位」「十七条の憲法(いつくしきのり)」の制定など新しき国づくりへの事業を推し進めてきた。

そして隋への使いでは半島諸国に対する優位性を示すために、朝貢はするも冊封は受けずという我国の立場を変則とは思われながら押し通すことに成功した。その上で半島との国交では大王を「天皇」の称号を使うようにしたのだ。すべて太子の強い思いで成し遂げてきたものだった。

 

👉『飛鳥残映』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】病院から返ってきた彼は別人だった。物足りないと感じていた彼との行為は長く激しくなり、私は初めて絶頂で意識を失って…

【注目記事】「どの部屋にする?」選んだのは、大きなベッドに小さな冷蔵庫、広すぎるバスルーム。浴槽の前で促されて服を脱ぐと…