【前回の記事を読む】【聖徳太子】昼過ぎにあえなく亡くなった愛しき人。その死を知り、太子は「我も共に逝きたい」と静かにつぶやき…
第一章 「消えゆく光芒」
額田部女王 × 蘇我馬子
太子の臥せている寝所に入り控えていると、そのうち厩戸太子が静かに眼を開くと田村王子を傍に近づけて、「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を汝に託したい」と一言つぶやくと、しばし中空を見つめた後また眼を閉じた。
熊凝精舎とは太子が釈迦の祇園精舎にならって額田部の地に創建を進めていた修行道場で、太子がその仏教の教理探究の場とすべく志していた。田村王子は「何故我に」とは思ったが太子には深い想いがあると感じて確(し)かと承り、太子の眠りを待って飽波宮を退出し、急ぎ女王への報告に駆けつけたのであった。
額田部女王は黙って田村王子の話を聞くと静かにうなずいて王子の労をねぎらうと、奥の寝所に引き下がり一人物思いにふける時を過ごした。
厩戸太子との来しかたを思い起こすと、女王の胸には様々な情景が去来してきた。それは、懐かしさとともに嬉しく、そして時に羨ましく感じることもあり複雑な記憶であった。
厩戸は生まれながら伝説に包まれていた。聡明ですぐに言葉を発したという。幼いころから仏教のもたらす輝かしい世に憧れてその具現化を求め、「聖人の智」を持つと周囲の皆から尊敬された存在であった。
成人しては一度に十人の訴えを聞き分けて、それぞれに的確に対応し、「上宮厩戸豊聡耳王子命(とよとみみのみこのみこと)」とも呼ばれていた。さらに、太子にはまだ見ぬ先の世を見通す力を備えていると言われ、この国の将来を託せる人物と皆から期待を寄せられていたのだ。
そのような偉才が大王家に生を受けたこと、さらに我と同じ蘇我の血を受け継ぐ王子としては確かに喜ばしく、長年にわたり我が政を支えてくれたことにかけがえのない存在としてありがたいと思っていた。