【前回の記事を読む】真新しい文化と人々で賑わう横浜へ。叔母の家で働きながら夜間学校に通う生活に胸を躍らせたが、肝心の仕事が…

二 横浜

三カ月もして横浜での生活に慣れると、奈津は専門学校から紹介された仕事をして学費を稼ぐことにした。叔母夫婦の了解も得て、昼間は小さな貿易会社の臨時職員として、雑務の仕事をすることになった。

毎日市電で埠頭(ふとう)近くの会社の事務所まで通った。貿易会社は小さい会社だったが、様々な国の異国人と出会い、日本人と思って話しかけると中国語で返ってきたこともあり、日々戸惑いの連続だった。

働き始めた頃はお茶くみや掃除の雑用ばかりだったが、慣れてくると帳簿づけや庶務の仕事も任された。英語の専門学校に通っていたので、時には英文の取引書類の翻訳を依頼されることもあり、昼間は仕事、夜は学校と慌ただしく日々が過ぎていった。

入学して一年が過ぎ、春の休暇には香川の実家に帰省した。そのとき、父の妹になる叔母がお彼岸の墓参りに実家に来た。奈津は父や兄のいる座敷にゆき、叔母のノブに挨拶をした。ノブは久しぶりに会うと奈津がきれいになったとか、今は何の勉強をしているのかと尋ねてきた。

一通りの挨拶が終わると、叔母の自慢の息子の話になった。叔母の話では、従兄の貞義(さだよし)は霞ヶ浦航空隊での飛行訓練が終わり、今度は水上飛行艇で編成された航空隊に配属されるということだった。父と兄は、貞義が一人前の軍人になれてよかったとさかんに褒(ほ)めていた。

兄の治樹は、年の近い貞義が海軍士官としてエリート階段を上っていることにいささか嫉妬心を持っているようにも思えた。

兄は左足が悪いために地元中学を卒業後、進学をあきらめて地元の役場に就職した。しかし、中学の級友や従弟が陸軍士官学校や海軍兵学校あるいは有名高等学校や専門学校に進んでゆくのを横目にして、取り残されたような悔しい思いをしていたのは奈津にも分かった。

小学校の教師をしていた父はもともと病弱で、病気のせいで定年を待たずに退職していた。そのあとは自分の土地を耕したり、小作人の田圃を回ってこまごまとした指導をしていたが、よく床に臥せてもいた。

そのために父自身、早く息子に家のことを任せたいと考えていた。兄も父の思いを感じ取り、中学を卒業すると実家を継ぐ決心をしたようだった。