一 野島・夏島

赤茶色をした湘南電車は小山が間際に迫る谷あいを走り抜けた。爽やかな新緑に覆われた周囲の低い山々は、初夏の光を浴びて輝いていた。電車は徐々に速度を落とし、レールのポイントを通過したのかガタガタガタと左右に大きく揺れたあと、ゴトンと音を立てて止まった。

奈津は湘南電鉄の金沢文庫(かなざわぶんこ)駅のホームに降りた。そこは初めて降りる駅だった。進行方向に目をやると、五、六本の軌道が平行に並んだ鉄道の車両基地が広がり、軌道には数両の電車が停車していた。次の金沢八景駅で、横須賀方面に向かう線路と逗子方面に向かう線路が分岐するためか、駅は操車場にもなっていた。

駅のホームから海側に目を移すと、藁(わら)ぶき屋根の低い家々が並んでいた。家々の屋根の後ろには新緑に覆われた小山の頂上がポツンと飛び出し、家並みが途切れた間からは青い海が見えた。東京湾だった。陽気のせいで湿気が多いためか、湾には薄く春霞がかかり、対岸の房総半島の姿は幾分霞んでいた。

奈津は手提げ鞄を持って改札口に向かった。改札口には既に十数人の客が並んでいた。背広や作業服姿の人が多く、近くの海軍工廠(かいぐんこうしょう)に関係する人たちかと思えた。

改札口で駅員に切符を渡して木造の駅舎を出ると、駅前の広場にはボンネットバスが一台停車していた。乗降口には鞄を首から下げた車掌が立ち、乗客にキップを売っていた。広場の隅の粗末な小屋には自転車が数十台並べてあった。電車の駅まで自転車で来た人が預けたようだった。

広場を右側に折れると商店街になり、広場の正面は横浜と横須賀を結ぶ国道に接していた。国道を横ぎると、海に向かう細い道があった。

奈津が細い道に沿って歩いてゆくと、道は段々と緩い上り坂になり、半農半漁の集落なのか、道沿いには藁ぶき屋根の粗末な家が点在していた。坂道を登りきった所の右手には見晴らしが広がっていた。

一休みをして周囲を眺めると、そこから右手に折れる道は下り坂になり、下った先は海に面した細長い平地になっていた。そこには青々とした蓮田(はすだ)が広がり、蓮田はそのまま平潟湾(ひらかたわん)に繋(つな)がっていた。