【前回記事を読む】「あなた。どうしてここに?」——目の前に現れたのは事故に遭ったはずの妻だった。しかし彼女は何も覚えていない様子で…

Case: A 夫の選択

「いや、そんな事はない」

「ホントにぃ?」

「ほ、本当だとも」

「まぁいっか。とりあえずここから帰らないとね。涼ちゃんがお腹を空かせて待ってるし。あ、そうだ。ご飯の時に今朝の話の続きをしましょうよ」

「今朝?」

「ほら、涼ちゃんを塾に入れるかって話」

あぁ、そうか。お前にとってはまだ『今朝』の話なんだな。俺にはもう何ヶ月も前の話に聞こえるよ。やはり涼子は自分の身に降りかかったことを理解してない。こんな時でも涼ちゃん、涼ちゃん。息子第一。

俺の【妻】はいつから【母親】になったのだろう。何を当たり前のことをと思われるかもしれないが、俺はきっと……心のどこかで息子に嫉妬していたのだ。

あの日の朝、涼子に冷たくあたってしまったのもそれが原因だ。その日はもっと大事な話をしたかったのに口を開けば涼ちゃん涼ちゃんだもんな。

愛した女がたとえ息子とはいえ他の男に現をぬかしていれば、イイ年したおっさんだって拗ねることもあるんだよ、涼子。そりゃあ塾だって大事な話さ。だがもうその心配はいらなくなったんだ。

「塾のことは気にしなくて良い。お前は自分のことだけを考えていればいいんだ」

「なぁにそれ。私のことって、例えばどんな?」

「今後の生活とか、身の割り振りだとか……まぁ、色々だ」

「もしかして……離婚、したいの?」

「いやいや違う、そうじゃない」

「浮気だけはしないと思ってたのに……」

「待て待て。話をちゃんと聞いてくれ。そもそもなんで俺の浮気前提なんだ」

嘘だろ涼子。お前、どうして涙目になってるんだ。

「俺が浮気なんてするはずないだろ」

「……本当に?」

僅かだがさっきと言い回しに差異があった。冗談めかしたり、からかったりする時のいたずらっぽい『ホントにぃ?』と比べると真剣さが伝わってくる。