分かり切っている正論を返されて東はソファに力なく腰かけた。うつろな瞳はひどく濁っており、半開きの口から覗く歯は長年の喫煙で少し黄ばんでいる。
背もたれがなければそのまま後ろに倒れてしまいそうなほど弛緩しきった体は隣の観葉植物に隠れてしまいそうなほど小さく見えた。
だからこそ、芯のある声色で「詳しく聞かせてくれ。俺が死ねば良子が助かる道理ってやつを」と言った東に葵は驚いた。
「信じるんですか?」
「少なくともお前たちは弱った中年男に付け込んだ怪しい宗教団体ではなさそうだしな」
「宗教……」
「どのみち何もしなければ涼子はもう助からないんだ」
「そんな、こと……」
ないですよ、などと無神経に言えるはずがなかった。涼子の容体については医者から詳しく説明されているはずだ。万が一命だけは救えても目を覚ます可能性は限りなく低いのだとも。
「俺が死ねば涼子は助かると言ったが、それはつまり、俺は今から殺されるということか。そもそもお前たちはなんなんだ。俺を恨んでいる誰かから殺害の依頼を受けた暴力団員か何かか。依頼主は涼子に惚れていて、この機に邪魔者の俺を排除したいと考えているのか。死神というのはその筋では有名な通り名みたいなものか」
憔悴しきっているだろうに東はスラスラと質問を並べた。腐ってもやり手の会社員なのだ。葵とて分からないことだらけなので静かに課長の説明を待った。
「順を追って説明します。まず東さん。あなたは死ぬわけではありません。あくまでも存在が消えるのです」
「分かるようでイマイチ分からんな……。東康介という人間は初めからこの世に存在しなかった。そう捉えるべきか」
「そうですね。『生まれなかった』と言い換えても差し支えありません。ですから東さんがいなくなっても誰も疑問すら持たないわけです」
「なるほどな。会社で俺が就いていた役職には他の誰かが収まり、家には別の人間が住む。そんなところか」
「ご理解が早くて助かります」
「俺のことを知っている人の記憶はどうなる?」
「それらもごく自然なものに置き換えられます。東さんとお付き合いしたことのある女性は別の男性と付き合っていたことに、東さんが立ち上げたプロジェクトは別の社員の方が始めたことになります」
「そうか……。それならまぁ、混乱を招くことはない、か」
呟いた東の横顔はどことなく寂しげだった。そして葵はその表情から、彼が覚悟を決めてしまったことを察した。
「いいぞ。その契約、乗った」
次回更新は1月10日(土)、11時の予定です。
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