【前回記事を読む】「母さん。死んじゃ駄目だ。俺、まだなんにも親孝行出来てないんだよ。」中学生の男の子は嗚咽しながらも話しかけることをやめない
Case: A 夫の選択
「俺たちが何をしたっていうんだろうな」
亡霊のように佇む東は両の拳を強く握る。爪が皮膚を食い破り、血が滴るのではないかと思うほど強く。
「こんな……こんな目に遭わなければならないことを涼子がしたっていうのか。生きていれば無意識に人を傷つけることだってあるだろう。知らず知らずのうちに他人を蹴落として高みに昇っていることだってあるだろう。
受験や出世、結婚なんかみんなそうだからな。だが少なくとも……涼子は意図的に他者を蔑ろにするような人間じゃない」
「承知しております」
「お前が涼子の何を知ってる!」
怒りの矛先を向けられたのが自分でないと分かっていても葵は身がすくんだ。だというのに怒鳴られた張本人である課長は「息子さんに聞こえてしまいますよ」と窘める始末。
その胆力に東は一周回って感心してしまったらしい。気勢を削がれたのか苦笑しながら壁沿いに設置されているソファーへ倒れ込むように腰を下ろした。
その衝撃でソファと隣り合っている名も知れぬ観葉植物の葉が揺れ動き、陰鬱な病棟の雰囲気と相まって誰もいない真夜中の森でさざめく竹林のような不気味さを感じた。
「俺はどうすればいい……?」
「道を示すことは出来かねます。私はあなたがやりたい事、願う事のお手伝いをするだけですから」
「だったら、加害者とその身内を全員涼子と同じ目に遭わせたいと言ったらどうする」
決して冗談で言っているのではないと、どうにか怒りを鎮めようと震えている声から伝わった。普段はキチンと剃っているだろう無精髭と落ち窪んだ目が、自分がどうなろうとも復讐だけは果たさんとする落武者のようで、余計なことを言ってしまえば課長と葵までもがその復讐の対象にされてしまいかねない雰囲気があった。
「もっとも、涼子をはねたボケ老人も死んじまったがな。もう運転はやめろと家族から再三忠告されていたのにそれを拒み、結果こんな事件を起こして死に逃げやがった」
「だから怒りの矛先をその家族に向けたのですか?」
「悪いか? 少々手荒だが免許証を返納させて車を処分すればこんな事は起きなかった。この東京に住んでおいて車が無ければ生活できないなんて寝言は言わせんぞ。実際問題、あの家族だってバッシングされてるだろうが。ニュースも見てないのか」
「バッシングされているからと言って加害者家族の皆さままで不幸にしていい道理はありませんが」
「分かってる。口にすればちょっとは気が紛れると思っただけだ」