【前回記事を読む】免許返納を拒んだ老人がブレーキを踏み間違え、車は妻に突っ込んでいった…事故後、夫は「加害者家族を妻と同じ目に遭わせたい」

Case: A 夫の選択

「かしこまりました。ですが本当によろしいので? 奥様の容態を考慮するとそれほど猶予はありませんが即断即決する必要性はございませんよ」

「お前は結局どうしたいんだよ。二転三転しやがって」

「可能な限りクライアントの要望に応えるのが私どもの責務ですので」

「そうかい。けどまぁ、心配するな。むしろ決心が鈍らないうちにとっととやってくれ。涼介だって俺より涼子と一緒に生きていきたいだろうからな」

「……」

「念のため訊いておくが、まさかここまで来て冗談だとは言わないよな?」

「もちろん」

まるで商談の場だ。葵はその現場に見学として連れてこられた新入社員のような気分だった。自分以外の男性二人だけで話を進める空間は居心地が悪い。悪徳商人である上司が契約のデメリットを説明しておらず、罪悪感を覚えながらも利益のために口を挟めない立場上の辛さも感じる。

(ありえない。どうかしてる! 東さんは大切なことを見落としている。だって、東さんが存在しなかったってことは、生まれなかったってことは――)

「それだと涼介くんの存在はどうなるんですか。一緒に消えちゃうんじゃないですか」

一瞬の静寂。遅れて東が「なんだと?」と狼狽えながら言った。人間は焦ると視野が狭くなる。おそらく、普段の東なら絶対に見落とさなかったポイントだろう。

「東さんが誕生しなかったのなら、息子の涼介くんはどうやってこの世に存在するって言うんですか」

「確かに……。どうなんだ、死神」

 二人で詰め寄ると、課長は素直に「その通りです」と白状した。

「課長、そんなのあんまりですよ……。言わないなんて卑怯です」

「知らないほうが幸せなことだってあるんだ。命を差し出すことで東さんの存在は消える。当然、意思や記憶、何から何までな。どうせ消えてしまうのなら息子さんを道連れにするなんて伝えなくても構わないだろう。心残りなど……ないに越したことはない」

「それはそうかもしれませんけど、だからって……」

その時、葵の肩に軽く手が置かれた。他でもない東だ。反射的にそちらを向くと「いいんだ」といやに優しく返される。今までの敵意に満ちたものとはまるで違う声色で。

「何がいいんですか……」

「涼介は分かってくれる」

「そんなの本人に訊かないと――」

「俺が涼子の代わりに生きていてもそう遠くないうちに必ず涼介を苦労させてしまう。だからこれでいいんだ」

「言ってる意味が分かりません。そんなの東さんとお子さん次第じゃないですか」

子どもを巻き込んでいいはずがない。葵は一家心中のニュースを見るたびに思う。せめて子どもだけは見逃してやってくれ、と。

「葵さん。悪いが俺はもう決めた。これ以上、第三者であるキミにとやかく言う資格はない」

「そんな……」

「死神。少しだけ時間をくれるか? 数分でいい。最後に涼介と話をしてくる」

「構いませんよ」

「心配しなくてもお前たちのことは何も言わない。ただちょっと……親父と息子の話をな」

やがて東は病室へと誘われていく。悪あがきをするかのように手を伸ばした葵の指先は宙をさまようだけで何も掴めなかった。