【前回の記事を読む】東大を出て、なぜハーバードへ? 浪人と結婚を経て歩んだ知られざる研究の日々

第一章 私と長男のこと

私自身のこと

[卒業後の準備]日本と違い、卒業後のことについても指導教官がどこに行けなどと言うことはない。自分で探さないといけない。

私の学会デビューは大学院3年目と4年目の間の夏、マサチューセッツ州南部のマーサズビンヤードという島であった岩石の結晶化学会議(Conference on Petrologic Crystal Chemistry)であった。

この会議で私が発表した研究は、翌1972年アメリカ地球物理学会誌に掲載された。これが私の処女論文であった。

この会議で指導教授は、鉱物の結晶化学の分野での主な研究者に私を紹介してくれた。それまで名前しか知らなかった研究者と実際に話をすることができた。

そしてその中の一人で、以前から尊敬していたカーネギー研究所地球物理学実験所の結晶学者と意気投合。二人ともコンピュータプログラミングが好きだという点も一致した。

[ハーバード卒業とポスドク]翌年の6月、大学院終了と同時に、この人の研究室にポストドクトラルフェローとして行くことになって、ボストンからワシントン市に引っ越した。

学位論文の最終版は、ポスドクになってから大学に提出して受理され、正式には次の年の卒業式に証書が出た。ガウンを着て帽子を被って記念写真を撮る卒業式だ。

しかし、私はそんな儀式にはまったく興味がなかったので、ワシントンからボストンに行く気にはならずに欠席。証書はあとで郵便で送られてきた。

カーネギー研究所地球物理学実験所では、実験、計算、論文書きと人生を楽しんだ。義務はまったくなく、自分の好きなことに好きなだけ時間をかけられる。この研究所には、結局4年も滞在し、最後の年は臨時研究員になった。