第二は「雄略天皇紀」二年条の記事である。

二年の秋七月(あきふみづき)に、百済(くだら)の池津媛(いけつひめ)、天皇(すめらみこと)の将(まさ)に幸(め)さむとするに違(たが)ひて、石川楯(いしかわのたて)に婬(たは)けぬ。(略)天皇、大(おお)きに怒(いか)りたまひて(略)仮庪(さずき)の上(うへ)に置(お)かしめて、火(ひ)を以て焼(や)き死(ころ)しつ。百済新撰(くだらしんせん)に云はく、己巳年(つちのとのみのとし)に、蓋鹵王立(かふろわうた)つ。

天皇、阿礼奴跪(あれなこ)を遣(つかは)して、来(きた)りて女郎(えはしと)を索(こ)はしむ。百済、慕尼夫人(むにはしかし)の娘(むすめ)を荘飾(かざ)らしめて、適稽女郎(ちゃくけいえはしと)と曰(い)ふ。天皇に貢進(たてまつ)るといふ。(『日本書紀(三)』黄4-3岩波文庫

これらの記事のどこが奇怪なのかというと、直支王はこの時はすでに薨去(こうきょ)していたのである。「応神天皇紀」二十五年条には、百済の直支王が薨じたことが記されている。

また蓋鹵王は、己巳の年にはまだ即位しておらず、実際に即位したのはそれから二十六年後の乙未(きのとひつじ)の年なのである。

つまりこれらの記事では、すでに死亡して居ないはずの王がその妹を遣わし、まだ即位しておらず存在しないはずの王が美女をたてまつっているのだ。新斉都媛(しせつひめ)と池津媛(いけつひめ)の名が似通っているのも奇怪である。 

 

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