【前回の記事を読む】彼の父親と私の母が不倫。親族双方殴り合いの大事件になった。だが、彼の母親は「慰謝料は要らないから」とだけ言って姿を消し…
アントライユ
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行きつけのラーメン屋は今日、定休日だった。心が躍る様な味にありつけないのは残念だが冒険をしてみるのも悪くない。千春が新しい店を開拓すると言い出して、私もそれに賛成した。
千春が見つけたのは、ネットに載っていない店だった。外壁の塗装は所々剝がれていて思わず眉を顰める。客は疎らに出入りしていた。皆揃って常連の雰囲気を纏っている。
「こういう店が一番旨い」
千春が自慢げに言うから、その通りなのだろう。
暖簾を潜ると異世界に入ったようだった。長い時を経てスープが染み込んだであろう店内の匂いを嗅いだら、とても美味しそうには感じない。床も底が抜けそうだし汚い。でも人々が啜っている脂をつけた艶っぽい麺は凄く魅力的に見えた。
こういう所の店主は頑固親父に決まっている。店主であろう人を横目で見ると、予想に反して意外と明るい人だった。店員に促されるまま席に着くと、薄汚れたコップに入った水を渡された。千春は顔を顰めたが、渇きには勝てなかったのだろう。水を少し口に含んだ。
「どう?」
「普通」
私は安堵して水を飲んだ。
注文してから約十分。運ばれてきたラーメンは想像以上に輝いていて、垂涎の的だった。千春がぶっきらぼうな態度で渡してきた箸を丁寧に割る。割り箸の先は微妙に欠けていて少し残念な気持ち。千春の「いただきます」と言う声が聞こえて私も習って手を合わせた。麺を少し掬うと更に湯気が目立った。
「まずはスープからだろ」
「あ、そうだった」
麺を丼に下ろしてスープを口に含むと、五臓六腑に染み渡るとはこういうことかと実感する。
千春はニンニクを入れながら口を開いた。
「十七日の夜バイト先の先輩と飲みに行く」
「わかった」
私もニンニクを入れようかと手を伸ばしたが、明日は午前からバイトだということを思い出して手を引っ込めた。