年始行事以降は、それまでの慌ただしさに比べれば坦々としており、定型的月次行事と藩主関連物故者(ぶっこしゃ)の命日における参拝の手配などで日が過ぎて三月中旬を迎えたが、雄之助は次の記述に刮目(かつもく)した。
(年中行事、三月十七日の段)
「明十八日御天守下弁天祭礼ニ付福壽院江左之通手紙差遣
以手紙致啓上候 明十八日御天守下祭礼例之通御勤行可被成候
尤入用品々御台所より請取可被成候
此段為得御意如斯御座候 以上
三月十七日」
(明十八日、天守下弁天祭礼の日となるので、福壽院へ次の通り手紙を差し出す。
「手紙を以て啓上いたします。明十八日、御天守下祭礼の御勤行(ごんぎょう)を例年通りお願いいたします。入用の品々を御台所にてお受け取りください。この段お知らせ申し上げます」)
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