【前回の記事を読む】石垣に眠る記憶——若き中小姓・雄之助が訪ねた寺で聞く、天守なき城の伝承

第一章 プロローグ

相模国(さがみのくに)大友郷(神奈川県小田原市)を本貫(ほんがん)とする大友氏の初代能直(よしなお)は、建久七年(一一九六)に鎌倉幕府の祖源頼朝(みなもとのよりとも)より豊後守護職に任じられた。

当家はその後豊後を本拠とする守護大名から、北部九州に覇権を拡げる戦国大名へと発展し、永々代を重ね二十一代義鎮よししげ宗麟そうりん)が永禄二年(一五五九)までに、室町幕府の下、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の守護となり、また、九州探題(たんだい)にも任ぜられその絶頂期を迎えたが、天正六年(一五七八)の日向奪還戦における高城耳川(たかじょうみみかわ)の戦いで島津軍に大敗したことを契機にその衰退が始まった。

宗麟の秀吉への臣従後、その子二十二代義統(よしむね)の文禄の役(第一次朝鮮出兵)での敵前逃亡容疑が秀吉の逆鱗に触れて、文禄二年(一五九三)大友氏は改易され、当家による二十二代四百年に及ぶ豊後統治は終わることとなった。

大友氏改易により一旦蔵入(くらいり)地となった豊後は、検地を経て総石高四十二万石を複数の大名が分け合う小藩分立時代を迎えるが、その後に勃発した関ヶ原の戦いの前後における豊後府内藩の当主交代はめまぐるしかった。決戦を境に属した勢力によりその運命が分かれたのである。

最初に入部した早川長敏と、次の福原直高は豊臣温故(おんこ)として西軍に与(くみ)し没落した。その後は東軍であった竹中重利が藩主となったが、次の息子の代で改易され、後に入った日根野吉明(よしあきら)は嫡子が早世し、末期(まつご)養子も叶わず改易された。

それらの遷移(せんい)を経て満を持して入部したのが、徳川家庶流(しょりゅう)、大給(おぎゅう)松平家の忠昭(ただあき)である。

忠昭は丹波国(たんばのくに)亀山藩(かめやまはん)(京都府亀岡市)二万二千二百石の藩主であったが、寛永十一年(一六三四)に豊後国内に移封(いほう)され、亀川、中津留(なかつる)、高松と拠点を替えた後、寛永十四年(一六三七)四月遂に二万二千二百石を以て府内城入りを果たす。

その際、丹波から豊後への異動に付き従ってきた提菩寺(ぼだいじ)の浄土宗浄安寺(じょうあんじ)と祈祷所(きとうしょ)の真言宗福壽院(ふくじゅいん)も城内三の丸に移された。