住持はほっと息を吐き、茶を啜った。
「その折、藩より弊寺へ申し渡されましたのが、天守下弁天様の追善供養(ついぜんくよう)でございます。歴代藩主が欠かさずお勤めなされてきたもので、忠昭様御入部の際も申し送りをお受けになったとのことでございます」
と、淡々と語った後、少しの間を置いて、
「人柱です」
と、吐息をつくように言った。
雄之助は、はっとして息を呑むと、
「おそらく、そのようなことであろうと想像はしており申した。やはりそうでござったか……」
と、住持の顔を覗き込んだ。
住持は意味ありげに首肯(しゅこう)し、
「お話を築城時に戻しますと……」
と、断って話を進めた。
府内城の普請(ふしん)を始めたのは福原直高である。直高は秀吉の下権勢を振るっていた石田三成の妹を娶(めと)り、三成の寵遇(ちょうぐう)を受けていた。
大友氏改易後の豊後分割と所領宛(あて)がいの際、直高は臼杵六万石に封(ほう)じられたものの、その後慶長二年(一五九七)前任者の早川長敏が木付(後に杵築と表記変更)に移された後、前禄に大分郡、速見(はやみ)郡、玖珠(くす)郡を加えた都合十二万石を以て府内に入部したが、その際秀吉より築城命令が出ていたため、直高は早速築城地の選定と普請工事を開始した。