老中首座を人質に取った不埒者が松の廊下を走り抜ける。田沼意留は雁の間に座したまま、そのあとに続く喧噪も耳に入れた。
(さて。藩邸に戻って切腹の支度でもするか)
ここまでやるとは聞いてはいない。だが、カイを城内に引き入れたのは紛れもなく自分だ。責任はとらねばなるまい。もとより覚悟の上。だがその後の田沼意留についての記録には、この年家督を嫡男・意尊に譲って引退した、としか残っていない。健康不良が理由なのにその後二十年隠居生活を送った、という矛盾した記述まである。
幕臣たちが飛び出したのと入れ替わりに、二の丸の御殿医が大広間に駆け込んで来た。
「お、大御所様!」
血相を変えて脈を診た。ぴくりとも動いてはいない。御殿医は固唾を飲んで見守る間部詮房に首を振った。即死だ。間部は一旦は腰を抜かしその場に崩れた。
(こんな。こんなことが後世に残っては……)
間部は即座に官僚脳をフル回転させた。そう。そもそも公式記録に家斉暗殺の史実などは存在していない。家斉はこの翌年病死したことになっている。しかしながら一年間病床の家斉に会った者はなく、家斉を看取ったこの御殿医はなぜか切腹している。
本丸から脱出しても江戸城は思いのほか広かった。中雀門をくぐると、意留と打ち合わせた通り馬が繋がれていた。
相良藩にいた頃から調練に使っている愛馬で名は「勝(まさる)」という。鞍には革の袋がぶら下がっている。中にあるのはリボルバー拳銃だ。大広間を飛び出してから少し時間が経っている。そろそろ来る頃だろうと踏んでいたが、やはり槍隊を先頭に追っ手が現れた。馬を繋いだ樫の木に忠邦を縛りつける。
「不埒者。多勢に無勢、逃亡は不可能だぞ。おとなしく投降しろ」
忠邦がありがたい忠告をカイに投げかけた。
「まあ、いいから。そこで見てろ」
カイは中雀門の裏に身を潜めて手勢を窺う。先鋒に槍、それに弓が続き、白兵が連なっている。鉄砲隊はいない。あれは準備に時間がかかるからな。カイの想定通りだ。
次回更新は8月30日(土)、11時の予定です。
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