それにしても、なんと魅力のある甘い誘惑だろうか。こうして口を閉じて、手を伸ばせば届く所に二人で居る。

危険をはらんだその時間といったら、言葉の要らない澄み切った〝時〟――運命の人との初めての出会いの瞬間と見紛うぐらいに似ている。

ついにあさみが身じろぎした。間髪入れず越前が口を開いた。まるでこの時間(とき)の効果を知っていたかのようだ。

「きょう、帰りに話し合おう。二人だけで」そう言うなり、そばを離れていった。

三年ほど前に越前がこのサークルに入ってきて以来、そのさっそうとしたたたずまいに魅せられてしまった恋心が、ほんのりとあさみの胸の内にまだ残っている。それは認めるところだ。

彼がこちらを好きか否か、この問いこそが恋する者に共通の最大の難問に違いない。あるときには愛されていると感じ、あるときにはやっぱり愛されていないと感じる。

もちろんこちらの思いを打ち明けたりはしない。たまに組んで踊ることがあれば体を熱くし、きっかけをとらえて言葉では遊んでも、いつも遠くから見つめる存在――友達と話をしていても、彼がどこにいるかは絶えず頭にあるような憧れの存在――それだけだったし、今でもそれは変わらない。

次回更新は8月10日(日)、22時の予定です。

 

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