「ふざけんな!」
立ち上がっていた。同時に襖が開いて、藩主の護衛三人が刀の柄を握ったまま入室する。ひとりが意留の前に立ちはだかり、ふたりがカイの体を拘束した。羽交い絞めされ両の足まで掴まれていたが、構わずカイが叫ぶ。
「あのおっさんはな、自ら進んで犬死にしたんだ。あの人はオイラたちなんだ!」
この小僧、妙なことを言う。ここに通す前に検分はしてある。寸鉄も帯びてはいない。意留は護衛を手で制した。
「離してやれ。続けろ」
「そりゃあ、大塩平八郎や格之助の名前は歴史に残るかも知れねえ。あんたの親父、田沼意正や意次公の名前もな」
「馬鹿者。賊軍と田沼家を一緒にするな」
口ほどには怒っていない。もっとこの少年の話を聞いてやろう、と思う。
「だが田沼意義はな、名前なんて残らねえ、残しちゃならねえ仕事に命を賭けたんだ!」
昂ぶり過ぎたか目から悔し涙が落ちる。
「格さんから教えてもらったよ。歴史ってやつを。でも出てくるのはお偉いお侍だかお公家様の名前ばっかでよ。だけど、その下とか裏には名前なんか残らない人間だっていたはずだ。だから、だからあの人は、オイラたちなんだ!」
込み上げるものを抑えられない。涙が止まらない。なんでオイラはこんなムキになってるんだ?
「ほう。泣いてくれるのか? あれは、そういう死に方をしたのだな?」
「死に方じゃねえよ。生き方のことだ」
と、その場に座り込んでうなだれる。意留は、少年をじっと見る。あれもそうだった。何かに打ち込むとすぐムキになり、できないことがあると呆れるほど悔し泣きした。文には、事を成したあと炮烙で自決すると書かれていた。私は、弟がこの煩雑な現世から逃げた、と早合点してしまったようだ。
「私はあれに、吉次郎に負い目があってな……」
吉次郎は意義の幼名だ。久しぶりに口にする。若い頃、家のために汚い仕事を押し付けたこともある。約束した建議書も握り潰されてしまった。最後くらいは、遺志くらいは聞いてやるべきかもしれぬな。
「お主らの企て、いま少し思案させてくれ」
カイが無言で頷く。意留が庭を見ると、鈍色の空にまっさらな小雪が舞っていた。
次回更新は8月2日(土)、11時の予定です。